「世代の相違」 小野寺 康博
2020年09月14日

今年は、コロナ感染症の影響で毎年3月末に行う医局の送別会が無く、4月の歓迎会も無い春だった。

しかし、元気でやる気に満ちた研修医の先生達がいつも通り初期研修を開始した。

当科腎臓内科にも早速4月から研修医の先生方がローテーションで回って来た。

それまでにも薄々気付いてはいたので注意して言葉を選んではいたのだが、思わず知らず出てしまう喩え話とか四文字熟語が、その場の理解を助ける為にと思って言ったつもりでも実はあまり良く理解されていないのだということが判って来た。

つい国語の説明に入ってしまうことがある。

今年の6月末で私も満65歳を迎え、無事定年退職の身となった。

幸か不幸か絶滅危惧種扱いの科に数えられる独り科で、業務を引き継ぐべき後継もいなかったため、また私自身も仕事を辞めるという気も全然していなかったため、当初から再雇用の道を当然のように受け入れていた。

勤務時間も出勤日数も受け持つべき患者さんの範囲(病棟、外来、透析)も、今のところは従来と何も変わりは無い。

受け取った書類上は、「定年退職」ではあるのだが、上記の事情で1年毎の更新を前提にこれからも可及的に仕事の継続と研修医の先生方や医学生の方達の教育指導を継続する機会が与えられた。

個人的には大変有り難いことだと思っており、徳洲会に深く感謝している。

こういった調子で仕事を続けることが決まったものの、最近ふと考えることがある。

昨年職員の結婚式に招待された際に、新郎新婦のご両親が私よりお若いのだという事実に今更のように気付いたのが始まりだった。

病棟で一緒に仕事をする看護師さん達も私の子供より若い人達が増えている。

SNSでの短文でのコミュニケーションに慣れているのか、長い話は好まれない。

なるべく簡潔に理解し易くという方向で伝えようと努力している。

元号が令和になって2年目。

私が生まれた昭和は、昭和の世代から見たら明治に該当する。

明治31年生まれの私の祖父が、「一銭」で買えた飴玉の大きさのことや、日露戦争に勝利した時の提灯行列の盛大であったことなどを孫の私に伝えようとしていた時は、はるか昔の事のように感じて聴いていたが、今は私自身が私の祖父の立場になって若い人達に話しているのだなと実感する時がある。

戸籍上の年齢では、既に初老期に入ってはいるが、社会活動に参加し続けている限りはまだ現役だと自分に言い聞かせている。

かつて「青年医師」の定義について読んだ事がある。

それは、意外な程シンプルであった。

「自分を青年だと思っている医師」の事だそうだ。

気持ちだけは、いつまでも青年医師であり続けたいと思い、自分自身がこれまでに多くの先輩医師達にそうして頂いたように、これからもこれまでに自分の中に培って来たもののエッセンスを次代の若い人達に引き継ぎ、伝える作業を可能な限り続けたい。

これからもどうぞ宜しくお願い致します。

投稿者腎臓内科部長 小野寺 康博
「同窓会」 蘆田 知史
2020年09月07日

全く私事ですが、昨年11月、静岡県熱海温泉で高校(函館ラサール高校)の同窓会があり、友人の強い誘いでわざわざ飛行機にのって参加してきました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、高校は半分ぐらいが函館市以外のところに実家のある生徒が入学しており、一学年100人ぐらいは学校に付属している寮で生活して通学していたのです。私もそのような寮生の一人で、人生で一番元気だった3年間を男子高校の寮で過ごすという、不潔で空腹な高校生活を送りました。(中には清潔な生徒もいました)。

私は飛行機の都合で、宴会の開催時間に間に合わず、少し遅れて会場につきました。函館ラ・サール高校同窓会会場という、広間に入ると・・・

まったく会場はどこの老人会かと思うような有様で絶句しました。なかには何年かに一度あっていた友人もおり、「お~ アシダー」と声をかけてもらい、やっと我に返りました。

宴会場では高校時代に親しかったけれど、進学先や仕事がばらばらで卒業後には全く会えず、今回の同窓会で実に40年以上ぶりにあえた友人もいました。席順の名簿をみて、名前がわかる友人が多かったけれど。 3年間、寮で同じ部屋で過ごした友人からは、「いやー、電車でお前が前に立ったらおれは席をゆずるわー」とかいわれながら、気持ちはだんだん18歳のころに戻っていきます。つまらないことで笑い転げ、友人が退学するときにはおいおい泣き、くわえタバコで歩いてパトカーに追いかけられた、あの日のころへ。

そのころ私は、本当になにもわからない世間知らずの少年で、札幌やその他の都会で育った友人たちの振る舞いを眩しく感じていました。

XX君のように格好良くラグビーをしたかったし、YY君のように天文学や数学のことを語りたかったし、ZZ君のように、JAZZ に没頭したかったし。

思えば私は。コンプレックスの塊だったかもしれません。

高校卒業後、進学し、医師になり、留学したりして、私はわたしなりに頑張って、そしてプライドもできて、今を過ごしているのだけれど、高校の同級生たちの人生の、いろいろな話を聞くうちに、そうだ、私はお前らのようになりたかったんだ、ということを心の底から思いだしました。そのとき、私は60すぎのおおやじだけど、自分が何者だったか、つくづくわかった気がしました。

以後、私はこの同窓会のことを思い出し、自分がいまなにをすれば自分として満足だと思えるのか、考えてしまうことが多くなりました。

そうすると不思議なことに、本を読んでも、飯をつくっても、犬と散歩しても、これが自分の人生なんだとこころから素直に感じられることが多くなりました。そして私の人生におおきな影響を与えてくれた、友人たちに本当に感謝しています。ありがとうございます。

こんなことはこれを読んでいるみなさんには理解できない話でしょうが、私はそういうわけでまた人生を考える機会を得、友人に恥じないようにがんばって仕事をしたいと思いました。

エッセーなのでこんな妄言ですみません。

今後もIBDセンターをよろしくお願いいたします。

投稿者副院長・IBDセンター長 蘆田 知史
「グルーミング」 中川 麗
2020年09月02日

 感染対策上の問題から、皆で集まることが難しい状況が続いている。たくさんのスタッフの赴任や、旅立ちがあったが、小さく挨拶をするにとどめざるをえない。苦労が大きい時代だからこそ、労い、そして、歓迎したいのに・・・。健康を大切にする今だからこそ、共に過ごせる時間に感謝するのに・・・。

残念だ。

こうして、皆で集まれた頃がいかに恵まれていたかを思い知る今、後悔することがある。それは、お世話になった師長さんが退職し、関連施設へ移動する時のお別れの会だ。まだこんな状況になるなんて予想もしていなかった頃、5階西のナースステーション横、みんなでケーキを分け合った。

その日、私は、ろくに挨拶もせず、逃げ出した。

師長さんは、温かく包み込んでくれる方だった。師長としてスタッフを抱きとめるだけではなく、看護師として患者さんとそのご家族に寄り添い、この病院が開院した時から勤務する技師さんの妻として同僚として家族ごと病院を支え・・・みんなの母だった。

日々の些細なことも含め、診療を支え、知恵を授けてくれた。患者さんがよくなり、次世代が育まれる土壌をつくってくれた。それらはもちろんのことだが、何より、この病院における定年までの最後の数年を過ごす場として、プライマリセンターを選んでくれたことが嬉しかった。

なのに・・・あの時、私は逃げ出した。

正直、ただ、別れが寂しかっただけではない。自分の不甲斐なさと、師長さんに対する畏怖の念。そんな感覚に圧倒されたのかもしれない。涙が溢れて、救急から呼び出されたフリをして部屋を飛び出した。

あの頃、自分の予想を超えるスピードで若手医師が増えた。彼らは私の想像以上に素晴らしかった。そして、瞬く間に診療の範囲は広がり、地域からの期待も高まった。何より私の度量が問われる中、私の成長は遅々と進まなかった。

もともと、器用でもなければ、視野も狭い。目の前の患者さんと自分というそれだけでやってきたのだから、時間がかかるのは当然だ。しかし、彼らは若く、せっかちだ。同じスピードで育たない10歳離れたおばさんに対して容赦ない。日々、息切れしながら彼らの後ろを追いかけることに疲弊していた。

要領が悪い私は、医者である以外は何モノでもなかった。同窓会にも出席したことはない。祖父母の葬儀も、妹たちの結婚式もすっぽかした。父が癌を患っても、見舞いの一つも行かず、初めて甥っ子に会った時には話せた。家族にとってはもはやATMでしかないが、せめて、医者としてなんとか!と、必死でやってきたこの10年分をかろやかに、あっと言う間に飛び越えてゆく次世代を目の当たりにして、自信はなくなる一方だった。

そんな中、定年退職の日を感謝と敬意に包まれて迎える師長さんは、眩しすぎた。

その人望と実績に圧倒された。

でも、全部言い訳。

ただ、ごめんなさい。

ああ、少し肌寒くなってきた。

短い夏が終わり、あっという間に雪が降るのだろう。

昨シーズン、10年ぶりにスノーボードにのってみた。

早朝、綺麗な縞模様のバーンを見るたびに、あの師長さんを思い出した。師長さんのつくってくれた病棟は、まさに、美しく快適なグルーミングバーンだった。

ちょっとコブで遊んでみたり、コース外を冒険したりしても、必ず戻りたくなるところ。安心して自身に向き合え、初心を思い出させてくれる場所。

今、新しい師長さんが、新しい日常の中で苦労するスタッフたちを束ねる。新しい時代に準備されるバーンも味わい深い素敵な場所になってきた。

さて、私には、何ができるかな。

悲しいかな、私の運転したキャタピラの後は、蛇行だらけのあぜ道だ。

でも、スタッフにも私にも目を閉じれば見える。

あの、美しく心地よい縞模様、帰る場所が。

だから、きっと大丈夫。

みんなに協力してもらい、誘導してもらいながらゆっくり運転してみようと思う。

師長さん、ありがとうございました。

投稿者副院長・プライマリーセンター長 中川 麗
『あ〜ぁ、夏休みぃ〜』(こんな夏休みはもうごめんだ) 片田 竜司
2020年08月17日

夏の代表曲と言えば、チューブの「あー夏休み!」、歌の内容はよく覚えてないが、リズムや曲調からは夏の高揚感がビシビシ伝わってきて、サビの「あー夏休み」の絶叫パートでその高揚感が爆発する、そんな曲だったと思います。

それに引きかえ、今年の夏休みは・・・・『あ〜ぁ、夏休みぃ〜』って感じで同じ「あぁ」でも、がっかりでため息まじりな「あ〜ぁ』になってしまっています。

冷静になって考えてみると、今年の夏休みは前代未聞で、緊急事態宣言の影響で小中学校は8月に入ってもまだ、夏休みに入っていないし、そもそも今年は東京オリンピック・パラリンピックの年で、今頃は、日本中が熱狂していたはずだったし、札幌ではマラソンが開催されてそれこそ大盛り上がりのはずだった。

春先に予約しておいた夏の旅行計画も泣く泣くキャンセル、里帰りの予定もキャンセル、空いた日程に近場の温泉にでも、とは考えたものの、そもそも、コロナにビクビクしながら、自分や周りの人に気を使いながら、といった時点で、すでに高揚感がなくなってしまうわけで、結局、何の予定もたてられず、夏休みに突入してしまったわけで。

「夏休みを取れるだけでもありがたく思わねば」と頭ではわかっていても、こんな夏休みはもうごめんだ。

コロナのバカヤロー早く消え失せろー、来年の夏休みこそは「あー夏休み!」と絶叫したい、心からそう思う。

投稿者 放射線科部長 片田竜司
「いきものがたり」 松井 裕帝
2020年08月11日

我が家、2か月ほど前に友人からカブトムシのつがいを頂きました。その日、子供達はとても興奮した様子で虫籠をずっと眺めていました。子供のアレルギーなどのこともあり、これまで生き物を飼うことがなかったのです。生き物を育て、共に生活することは学校の授業では教えてくれないことをたくさん教えてくれます。子供達はカブトムシのつがいに『かぶお』と『かぶこ』と名を付け、毎日ご飯(カブトムシ用のゼリー)の交換や、虫籠が汚れていたら掃除、たまにひっくり返って起き上がれなくなっていることがあるため元に戻してあげる、程度であまり手のかからないカブトムシ達ですが、大事に見守ってきました。

夜間には狭い虫籠内で飛ぼうとしている翅の音がよく聞かれ、時に耳障りなこともありますが、音がしないと逆に心配になるなんて、いつの間にか家族全員がかぶおとかぶこを家族と思っていることに気づかされます。

そんな最中、7月末には交尾をしているのが頻繁に見られ、卵も産んでいました。かぶこはいつの間にか片方の前脚がなくなっていましたが、逞しく生き続けていました。昆虫の生命力は素晴らしいと思わずにはいられません。

こんなカワイイ家族の一員に突然の不幸がやってきました。先日、つがいのうち、メスが亡くなりました。数日前から元気がなかったので心配していたのですが、朝動かなくなっていました。子供達も生き物が死ぬという、ごく当たり前のことではありますが、目の当たりにして色々なことを感じたことでしょう。敢えて聞いたりはしていませんが。

今年はオリンピックがなくなり、夏休みも短くなってしまい、外に遊びに行くことも躊躇してしまう不思議な夏となってしまいましたが、我が家には毎日貴重な命の授業が繰り広げられています。

投稿者外傷センター部長 松井 裕帝