今回は為政者について考えてみたいと思います。
為政者とは、政治を行う上での責任者のことです。大臣や官僚にあたると思います。今回のコロナ感染の際も、政党は異なるが、10年前の東日本大地震の際も、この国はどうして有事にこれほど役に立たないのか、とても残念な気持ちになります。それは、大臣や官僚は国民のことなど、どうでも良く、自分たちの懐具合ばかり気にしているからではないのでしょうか。また、教育の問題もあると思います。正しい歴史教育の問題です。たとえば、1,350年以上前に、万葉集に収められている、第34代舒明(じょめい)天皇の歌があります。「大和には多くの山があるけれど、中でも特に良い香具山に登って国を見れば、陸地には民のかまどに煙が立って景気がいい。水のたっぷりある池にはカモメがいっぱいだ。いい国だな。このすばらしい大和国は」。これは、日本人独特の言霊信仰による祈りの歌なのですが、同時に、天皇は香具山から国見をし、民の景気を判断して、税の徴収を調整していたのです。今の政治家は、苦しい人間の首をしめ、税を徴収している。しかも徴収した税を正しい方向に使わない。まったく逆のことをしている。古代の政(まつりごと)はきちんと機能していたのに、現代においては、天皇陛下から任命された征夷大将軍である総理大臣に、政を決定する覚悟がなく、その下の大臣や官僚を使いこなせていない。なんと悲しい現実なのでしょう。将来、為政者になろうとする者は、それなりの大学へ進学するでしょう。この大学の初期に意味の無い教養課程というものがある。こんな課程はどうでもいいから、為政者になるものは、古典文学や正しい国史(特に外国史との比較において)などを、勉強し、どうすれば正しい方向へ導けるのか、その覚悟が決められるのか考えて欲しいと思います。
以前のこのリレーエッセイでも書いたのだが私はクラフトビールを好んでのんでいる。
IPA(にがいやつ)といわれる種類が好きなのだが、そのなかでもHazy IPAもしくはNewEngland IPAと呼ばれる濁ったものを特に好んでいる。
なかなかコロナが収まる気配がみえず、引き続き外出しにくい世の中なのでお気に入りのブルワリーから通販で仕入れて楽しんでいる。
その中で、最近は3Lとか5Lとか小さめの樽で郵送してくれる通販サイトがいくつか立ち上がったのだ。早速利用してみた。家で好みのクラフトビールをサーバーからグラスに注ぐのだがまさに至福の時だ。
とはいえ、早くお店で仲間とクラフトビールを楽しみたい。ワクチン接種が広まり早くコロナが収束することを願うばかりだ。
先日、所用で京都に行ってきた。昨年からのコロナ自粛で職場との行き来以外は、市内の限られた場所にしか出かけていなかったので、千歳空港に行くのも飛行機に乗るのもしばらくぶりで、久々の千歳空港は国際線ターミナルが以前より大きく(以前の倍ぐらい?)なっていて、ちょっとした浦島太郎状態。以前はなんとも思わなかった事が、特別な事のように思えてしまって、飛行機の離陸時にはいつもより緊張したりして、なんか新鮮な気分になった。今、思い起こすと、ちょうど一年前のこの時期に東京オリンピックの延期が決まり、1回目の緊急事態宣言が発動されて、日本中が静まりかえっていたように思う。当時は安倍総理だったし、アメリカはトランプ大統領で、なんか遠い昔の出来事のように感じる。一方で、2回目の緊急事態宣言が解除された今でも、リバウンド、変異株の影響でコロナは一向に収束する気配がなく、この先どうなることやら。この間、よかったことをしいて挙げれば、外出時のマスク、手洗い、検温の習慣がついたことぐらいか。そんなことを行きの飛行機の中で考えながら、到着した京都はというと、北海道よりも一足早く春が来ていて、小春日和のいい天気、気温も程よい感じで清々しい。桜はちょうど満開で、京都の歴史あるお寺や神社にマッチして、なんとも風情があっていい感じ。これぞ、「ザ・ニッポン」という景色に、「やっぱ、サクラはいいねぇ〜」とややテンション上げ気味にスマホカメラのシャッターを切っていると、興奮した鼻息のせいでメガネにくもりが・・・。マスクのせい!元はと言えばコロナのせい!!くっそ〜と思いつつも気を取り直して自分だけの「ザ・ニッポン」を無事に写真に収めて北海道に戻ってきました。(注;決してサクラを撮るためだけに京都に行った訳ではありません。)
一日も早くマスクなしで生活できるようになることを願ってやみません。
年度末である。
大事な仕事の一つに1年に行った手術症例を学会に報告するものがある。電子カルテを365日1日1日開けると、その時どきに手術などで縁のあった患者さんの名前が画面に出てくる。その中には終末期を迎えた患者さんもいる。
コロナ禍の中、当院では通常の手術は滞りなく行われた。しかし、病院は治療の場であるが看取りの場でもある。「面会制限」という4文字は病院で行う緩和ケアに大きな試練を与えた。
本来、「密」が売りの緩和ケアにとって家族との面会は重要な要素である。終末期を迎えた患者さんにとって、家族との最後の触れ合いは生きる希望でもある。医療者にとってはより良い旅立ちのために家族との連携は欠かせない。
ホスピスが「施設」である以上、面会制限はついて回る。となれば、究極の「密」は在宅ホスピスとなる。近隣では看取りまで対応してくれるクリニックが増えた。家族は在宅ワークで家にいる時間が増えた。「少し暇になった」という家族もいる。在宅療養の条件がコロナで整った形となった。
将来しんどくなるだろう患者さんに「しんどくなったら」とは言えない。「長尾の顔が見たくなったら戻っておいで」と言い、握手をして自宅へ送り出す。
「戻っておいで」とは言うものの、患者さんは戻ってこない。結局それが患者さんとの最期の会話になっている。
「家族に見守られる中、静かに自宅で亡くなられました」と訪問診療医からの手紙が届く。バカボンのパパではないが「これでいいのだ」と自分に言い聞かせる。
手術症例を入力していくだけなのに、握手をしたままの患者さんを想い、カルテを眺めている。
年度末までに仕事が終わらない。
"自分が死ぬことなど考えたこともなかった"と80才も過ぎた老婆は死の間際に目を大きく見開いてつぶやいた。
育ち盛りの6人の子供と夫と腰の曲がった義父といった大家族を抱えての日々を思い出しながら、当然ながらそのころには自分の死などについては少しも頭をよぎることは無かったと。
今ならばあばらやともいえる家もそのころには並の家と感じられていた。家の横に広がる畑には季節の野菜はもとよりトマトやウリやスイカが実り、秋口には数種類のリンゴや二十世紀ナシに似た北海早生などのナシや大栗、デラウエアなどのブドウが秋の冷気の中で味わえた。鶏の卵や羊のミルクも毎日のメニューであった。
子供たちはいずれもそこそこの優れもので、田舎では自慢の種であった。唯一お金はなかったが、6人の子供を大学にまで通わせた。さらにだれかが病気になった時に困らないようにと1人を医者に仕立てた。このような日々をやりくりする中ではもちろん死などを考える余裕もなかったと。
しかし夫が定年になって子供たちもそれぞれ独立して日々の生活に余裕ができたあとは、子供や孫との付き合いの中で月日を過ごして齢を重ねる中で自分の先行きを考える時間もあったとも思われるが、自分の死などには思いもおよばなかったと。
医者になった子供は医者になった時から自分の死にざまをあれこれと考えて時を重ね、今母親のいまわの際に近い齢になった。
母親が死に際に"自分が死ぬことなど考えたこともなかった"とつぶやくのを聞いた時にはとても驚いたが、自分の死ということを少しも考えずに生きてきたということの意味は本人にしか分からないこととして、この言葉をつぶやく姿を思い出すたびに今でも驚きを禁じ得ない。
ちなみに比べるべくもないことではあるがナイチンゲールについても自分の死について語ったところはまだ見たことがない。是非にも彼女の頭の中を訪ねてみたいものである。