私は高所恐怖症です。
気が付いたのはいつ頃でしょうか。学生時代はそうでもなかったと思います。
20年以上前のことです。ダイビングをしていた私は、ある深い海底から立ち上がった崖の近くにいました。足元には暗闇が迫っており、海底はどこまでも深く、戻ってこられなくなるような嫌な感覚に襲われました。海中は地上とは別世界です。あの独特の全身に感じる心地よさ、時にはウミヘビやサメに遭遇することはあっても、夜間はティンカーベルになれる神秘の世界が好きでした。でもそれは違うと気が付いた瞬間でした。自分の足元より下に底があるのは不安でしかなくなったのです。
10年以上前のことです。子供用のバルーンジャンボジャンプ台に登った時のことです。小学校低学年だった子供たちが楽しそうに2mくらいの高さから下のジャンボクッションに飛び降りるのを見届けた私は、係のお兄さんの励ましを辞退し、一人で元来た階段から降りていきました。
なぜこうなったのでしょう。VRを利用して色々な体験ができるようになった現在なら、経験を重ねていくうちに私の恐怖症も克服できるのでしょうか。
超常現象や都市伝説といった類の話に興味があり、いろいろ自分で調べたりもしています。今回、医学に関する不思議な話を一つ紹介したいと思います。
1403年にイングランドでシュールズベリーの戦いと呼ばれる内戦がありました。その戦いにイングランドの皇太子で後のヘンリー5世であるヘンリー王子も参戦していましたが、戦いの中敵の放った矢が左目の下に突き刺さり上顎洞から下顎骨まで15cm以上にもなる深い傷を負ってしまいます。当時の技術では誰も取り出すことはできないと思われていましたが、そこで選ばれたのがジョン・ブラッドモアという外科医でした。彼は金細工職人でもあり(この頃は医者でも他の職業を持っていたようです)、当時としては考えられない新しい手術器具を自ら作り出し見事に矢を取り除くことに成功しました。
その後、傷口をワインで洗浄し、そこに蜂蜜とテレビン油を浸した詰め物を傷口に詰め込み、20日後には傷は完全に閉じたそうです。
これにはとても不思議なことがあります。なぜ。ブラッドモアはワイン(アルコール)、蜂蜜、テレビン油を使ったのでしょうか。これらは全て抗菌作用のあるものですが、人類が細菌の存在を知ったのは1676年のことであり、それ以前には感染症の原因がなんであるか知られていませんでした(蜂蜜に関しては古代エジプトで包帯代わりに使われており知っていた可能性はありますが)。さらに、無菌手術の概念に関しては、1867年に発表された論文が初であり、15世紀初頭に傷口を消毒して感染症を防ぐという概念や何を用いるべきかをどのように知り得たのか全くもって謎です。
なかには、彼はタイムトラベラーではなかったのかと言う人もいます。
実は、この時彼はコイン偽造の罪で服役中だったそうです。もしかしたら、未来の硬貨を持っていてそれが偽造したものとみられたのかもしれません。そもそも、服役中の者に皇太子の治療を任せる事が不思議です。彼が特別な能力を持っていると考えた人が当時いたのかもしれませんね。
2022年より救急科部長として就任しました。平山傑ですよろしくお願いします。
リレーエッセーを依頼されましたが、エッセーってなんだよ、とりあえず困ったな。
まあ、得意分野で勝負しよう!ということで、お勧めの漫画を紹介しようと思います。
今更、医者が「ブラックジャック」をお勧めするのかよっ
と思われるかもしれませんが、
医療が進んだ現代でも色褪せない、絶対的な医療漫画の原点。まずは最初に紹介したいと思います。
ブラックジャックは無免許医であるものの天才外科医、その技と人間としてのポリシーに心動かされる作品ですが、今回紹介したいのはそのライバルともいわれるドクターキリコです。
「死神の化身」という異名をとりながら、法律に触れないように安楽死を請け負う医者として登場します。
殺人狂の様な印象を持っている方もいるかもしれませんが、その実「生きようとする意思がなく、医術的にも手の施しようのない患者の救済措置としての安楽死」を信条としており、無暗矢鱈と希望する安楽死を施しているわけではありません。
救える命は救いたいし、それでも救えない命にそれなりの終着点を見つけてあげる。彼の信条は今の高齢者終末期医療の考え方の参考になるのではないかと思います。
目の前の病気だけを治療することに主眼を置くのではなく、その患者さんの将来を見据えた治療方針を提示する。
もしくは安楽死とまではいきませんが手の施しようもない将来が予測できた場合は治療を行わないことも提示することが、今の医療には必要と考えられないかと思います。
スピンオフ作品「Drキリコ 白い死神」(脚本:藤澤勇希、作画SANORIN)の作中で
「医者が救えるのはせいぜい命なんだよ、患者の人生までは救えない」
というセリフがあります。その通り我々医者は生命を維持することができるかもしないが、そのあとに続くであろう人生までは保証できません。
全力救命した結果、介護度が上がり施設や家に戻れず、意思疎通も取れず何のために生命活動をしているのか、という状態になることもしばしばです。
認知症、寝たきり、全介助、治療困難な担癌患者、家族不在で本人も意思決定能力がない等、色々な高齢者、終末期医療があります。
我々も家族・本人が納得できる終着点も見据えた医療の選択と我々も提示していく必要がありますが、皆さんもどういう終末を迎えることを望むか、考えておく必要があります。
なんでも助けるブラックジャックは憧れる医師像ではありますが、私はドクターキリコの様な考え方も必要と思うことがしばしばです(安楽死は絶対にダメですが)。これを機に一度読み返してみてはいかがでしょうか。
倫理あるいは医療の倫理はいまだに分かりづらいものがある。その理由は人文分野と言えども構造化をして理論的な体系化がなされずに現象レベルでの議論に終始しているからであろう。理論化とは、"現象レベル"の事象を"構造化(抽象化)"して頂点に"本質"を導き出す事である。倫理の科学的な構造化の前提として、我々は倫理の世界の中にいることを自覚しなければならない。倫理のイメージとしては、①社会の中で人と人との関係性を良い方向に導くこと、②人が他の人に"何かをしてあげたい"、他の人は"何かをしてほしい"との関係性の中で良い結果をもたらすこと、そして、③まず命を大切にすること、等が挙げられる。
このような概念をもとに、倫理の本質をアプリオリに"社会生活に於いて命を大切にする行動"と定めて構造化を試みる。まず、この"倫理の本質"の構造を解説してみる。
"社会"ということについては、二人以上の人の間の関係性を取り上げるもので、"何かをしてほしい人"と何かをしてあげたい人"といった関係性などが考えられる。この社会の背景にある倫理の位置づけは、"やってはいけないこと"としての法律、"やることを勧める道徳や慣習"、人を導くものとしての"宗教"、等が含まれる。このように倫理の世界に我々の関係性をはめ込んだものが"社会"であろう。
次に、"命"ということについて考えてみる。古来我々は他の生物の生態を観察して、あるいは観察記録や報告を紐解いて命の実感を得ている。しかしファーブル昆虫記の中の昆虫の死は少しも恐怖や不安や恐れを感じさせないが、それは、個々の昆虫の死は必ず卵を産んで次世代への同じ形の昆虫の再生につながるからである。しかしこれらの生き物にも悲惨な死を見ることがある。それは種の絶滅で、このような形での命の消滅については心が動かされる。人の死はどのようなものであろうか。人は他の生物と同じように人からうまれて同じような姿かたちを受け継ぐ。しかし人は成長の過程で認識を膨らませるため、成長していくにつれて他と大きく異なった存在となる。その人の特性や人格はその人だけのものとして存在し続け、それが死を迎えた時にはこの世のたったひとつの存在が消滅してしまい、次世代にも引き継がれることもないという恐ろしく悲しいことになる、すなわち人は生まれながらに絶滅危惧種ということになる。このような観点から人の命はかけがえのないものと考えられるのであろう。人の命についてはもうひとつの見方がある。人は700万年前にチンパンジーと共通の祖先からわかれて進化して現在に至っている。鉤爪もなく牙も退化した人類が今日までに繁栄した大きな要因は集団生活とその社会化であると考えられている。死はこの本能に刻まれた社会生活からの隔絶を意味しており、孤独なそして過酷な状況に置かれることになる。そこに死が大きな不安や恐怖をもたらす要因があるということであろう。ここでも命はかけがえのないものとなる。
次に、"倫理の本質"の中の"行動"について述べてみる。行動とは周りの人から見たその人の動きで、"行為"よりは客観的な意味合いを強く感じます。行動には時間的経過を伴うのも特徴です。人は五感から大量の情報を受け入れて、大脳の中でほぼ短時間に1個の結論を出して筋肉に出力を出す。したがって同じ筋肉の動きでも根拠となる認識は人によって異なります。この点から言えば根拠が違っても行動が命を大切にしていればその行動は倫理的であるという結論になる。
さて、倫理の構造化の現象レベルに戻るが、構造化の無い現象レベルの内容の記述は100人の著者がいれば100の認識が記述されるので、これが膨大な著書の洪水の原因と考えられる。この現象レベルを今回の倫理の本質に照らしてみる。たとえば安楽死は、今回の"医療の倫理の本質"に照らすとまったく命を大切にしていないので根本的に倫理的ではないことになる。尊厳死はどうだろうか。尊厳死の中の脳死は人の個々を表す最も特徴的な認識といった部分がすでに消滅しており、生物学的な生命のみが残った状態といえる。生物学的な死は自然のことわりでこれに対する延命の意味は無いであろう。
今回は医療の倫理の理論化を考えたが、人文分野の学問体系の科学的理論化としては看護学の"科学的看護論"が有名である。この看護の理論化は薄井坦子によってなされた。科学的看護論は、看護の本質を"生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえることにある"と定めて理論の構造化を行った。
サッカー日本代表は1993年のいわゆる'ドーハの悲劇'によりサッカーワールドカップ本戦出場を逃しました。その後1998年にプレーオフの末初出場を果たしましたが、グループリーグ3連敗で敗退となりました。
しかし以降2022年まで毎回本戦出場の常連国となりグループリーグも何度か突破しましたが、決勝トーナメントでベスト8に進むことはできませんでした。
今回こそはと意気込む日本でしたが、グループ分けのドローの結果に愕然としたのは私だけではなかったでしょう。コスタリカはともかくとして、ワールドカップ優勝経験国である強豪ドイツとスペインが同居していたのです。コスタリカには勝つとしてドイツとスペインをどうするのかという、私の妄想をよそに対ドイツ戦は始まったのでした。0-1で前半を折り返し、何とか一点でも返して引き分けに持ち込めないかと思っていたら、南野のクロス気味のシュートのこぼれ球を堂安が押し込み1点を返し、さらには板倉のロングフィードを浅野が見事なトラップで足元に落とし角度のないところからゴールキーパーの名手ノイヤーのそばをかすめてゴールネットの天井に突き刺さるシュートで2対1として勝利を得たのです。ドーハの悲劇がドーハの奇跡に変わった瞬間でした。
これに気を緩ませたのか最も何とかなると思われたコスタリカには1-0で負けてしまいました。
第三戦のスペイン戦ではスペインのボール支配率が著しくドイツ戦と同様に前半は0-1で折り返すことになりました。後半堂安がミドルシュートで一点を返すと三苫のショートクロスを田中が押し込み勝利したのです。この際三苫がクロスを打った瞬間にボールがラインを割っていたのではないかという疑問がありビデオ判定の結果わずかにラインにかかっていたとして認められ、1ミリの奇跡として話題になりました。
さて、いよいよベスト8をかけた37歳の闘将モドリッチ率いるクロアチア戦ですが1-1のまま延長戦にもつれ込み、最終的にはPK戦で敗れてしまい今回もベスト8進出はなりませんでした。こうして私の寝不足の日々も終了したのでした。