「さよなら 747」 黒川 泰任
2013年06月10日
 かって世界中でもっともたくさんの数が日本の空を飛んでいたBoeing社の旅客機747(Jumbo)が,今では日本航空からはすでに全機いなくなり,全日空でも今年度中に姿を消すそうです.

 もともと軍用機(輸送機)として開発されましたが、ロッキード(C-5A Galaxy)との競争にやぶれ,その莫大な開発費を回収するため,民間機として改修,販売して大ヒット(1400機以上)しました.その大きさゆえ、提供座席数の需要過多という点から当初は人気なく,当時は世界一のパンナムが無謀といわれながら購入を決めたことが,結果的には大ヒットにつながりました.

 大学時代にはじめて飛行機に乗ったのがこのJumboでした.飛行機はバスや電車(汽車)みたいなものと思っていましたが,横10列の座席や二階建て構造をみたときには、その広さ,大きさにびっくりしました.しかもその造形が,特徴的で,とても美しい.印象に残る機影です.

 Jumboは あまりに広くて、真ん中に座っていたら外も見えないので、恐怖感が全くありませんが(外が丸見えのジェットコースターは絶対に乗れない),実はjumboの安全性の最大のポイントは4発エンジンにあります.
 太平洋や大西洋をまたいで飛行するようになると,かってはすべてが4発機でした.いうまでもなく,エンジンが止まってしまえば,車はそのまま止まって何の問題もありませんが,飛行機は,それこそたくさんの要因でエンジンが止まってしまう確率は実は低くはありません.そんなときに4発の安心感は絶大です.実際Jumboは1つのエンジンだけで安全に飛行できます.現在の主流は双発機(2発)となりましたが,では,それほどまでにエンジンの信頼性が向上したのでしょうか.もし,かってのエンジンと最新のエンジンの停止する確率が同じで1/nとすると,4発機で単発になる確率は,(1/n)3,双発機では1/nとなります.すなわち現在のエンジンの信頼度はn2倍も高くなったということになります.このnが10などということはないでしょうから,例えば100 つまり,エンストの確率が1%とすると,最新のエンジンはかってのものより,この45年間で1万倍も信頼度が上がったことになります.驚異的な技術力です.

 一方同じ45年間でも,同じような別の巨大システムです.構成する部品の数でいえばむしろ少ないかもしれません.電気を起こすのが仕事なのに,その自分が他からの電気の供給がなければ(津波はきっかけにすぎません)爆発してしまうなんて,そもそも機械,システムとして,欠陥以外の何者でもありません.このような技術者の怠慢がまかり通り,目先の経済効率だけ求めるシステムは社会構造の基本にはなり得ないのです.GEがすばらしいエンジンを作り上げてきた一方で,同じGEの原子炉を改善できなかったことは,極めて残念です.
 雨が降るたびにダムが決壊していたり,スイッチを入れるたびにテレビが火を噴いていたら,とても使い物にはなりません.

 完成されたシステムはJumboのように造形も美しいですが,原子力発電所は,いつ,どれをみても,不気味で「美」を感じません.
投稿者脳神経外科部長 黒川 泰任
「全然食べれる?」 三浦 美文
2013年06月03日
日本語はあいまいと言うか難しいですね。特に問題ないのかも知れませんが、以前から私にとって少し違和感を覚える言葉があります。それは「全然」と「ら抜き言葉」です。「全然」は後に否定の言葉がくると思っていました。それと、いわゆる「ら抜き言葉」も良く耳にすることがあります。例えば「食べれる」ですが、これも「ら抜き言葉」だと思っていました。
実際パソコンで「全然食べれる」を打ち込むとチェックが入り、くだけた表現(全然+肯定文)断然、非常にと出ます。修正を押すと次に、「ら抜き言葉」ということで「断然(非常に)食べられる」に変わります。全然+肯定は若者言葉、はなし言葉とも出ていたので少し調べてみました。
「全然」や「ら抜き言葉」の使い方に関して、違和感を覚える人は結構いるようです。全然+肯定はかなり昔から非常にという意味で使われていたようで、俗な言い方と書いてあるものもありますが、間違いではないようです。「ら抜き言葉」は可能の意味にしか使わず、「書ける」のような「可能動詞」を作ることができるのは 「五段活用」する動詞だけで、「食べる」のような「下一段活用」する動詞や 「見る」のような「上一段活用」する動詞は、助動詞「られる」を使って 「食べられる」「見られる」としなければなりません・・・・とも書いてあります。「五段活用」、「上一段活用」、「下一段活用」などという、昔習った単語が並んでいました。結局、文法はその時の使い方によって変化するため間違いと言う訳ではないようです。言葉は生き物なので、その場の雰囲気で通じるのであれば問題ないとしているようです。しかし、公式的なものには使用しないほうが良いようです。

新しい義歯を入れた後
私「入れ歯の調子はどうですか?」
患者さん「全然」
私「そうですか(否定されたと思いがっかり)」
患者さん「大丈夫、全然食べれるよ」
私「それでは確認させてください(一安心)」
意味は通じますね。
投稿者歯科部長 三浦 美文
「おすすめの本」 倉田 佳明
2013年05月27日
独身時代、年に一度の休み(=夏休み)には南の島にバックパッカー的な旅行をしていました。海外に行くので、どうせなら旅行中は英語にどっぷり浸かろうと思い、英語の単行本を1冊持って行き、旅行中にそれを読み切るのが決まりでした。本の選び方はいつも適当で、空港の本屋さんでちょっと目についたものを買います。
 確かニューカレドニアの離島に行った年、その時はNicholas Sparksの“A Walk to Remember”という本を成田空港で買いました。飛行機の中、宿などで少しずつ読み進めて行くと、高校生の恋愛もので、序盤は「大して面白くないなぁ」という感じでした。
 ところが後半、ネタばれになってしまうので詳しくは書きませんが、グイグイと話の中に引き込まれていきます。高校生の頃の自分を主人公に重ね合わせ、笑ったり、わくわくしたり、泣いたり、泣いたり、泣いたり… 実は涙々の感動ものだったのです。まるで絵葉書のような真っ白なビーチで、一人本を読みながら号泣する東洋人の男は異様だったに違いありません。
いつもは1週間の旅行で1冊読むペースなのですが、割合分かりやすい英語だったこともあり、3日で読みきってしまいました。後で知ったことですが、この作家は女性向けの?ロマンス小説を主に書いています。でもこの本は男でも問題なく読めます。また映画化もされています。(原作が良過ぎて、見ませんでしたが)
本で泣きたい方、“A Walk to Remember”、いかがでしょうか。
投稿者外傷センター部長 倉田 佳明
「看護週間によせて」 関山 伸男
2013年05月20日
 厚生省は1990年に、5月12日のナイチンゲールの誕生日を含む1週目を看護週間として制定しました。制定に際して日本看護協会が提出した要望の趣旨は、看護と看護職に対する理解を深めてもらうとともに、その社会的評価を高めていくための週間としています。以後、毎年多くの病院で、この週間を通して看護に関わる多彩なイベントが開催されています。一方、看護職ではない方々が中心となっての“看護の日の制定を願う会”の趣意書では“看護の心をみんなの心に”をスローガンに掲げています。しかし、これらの趣意書には“看護とは”を解説する内容は含まれていません。

 このように一般社会への啓蒙は、厚生省、日本看護協会、著名人、等の方々によってなされてきておりますが、いま看護ということについてもっとも理解を深めなければならないのは医師達の理解であろうと考えます。病院という機能的な組織の中で医師と看護師は医療という車の両輪にもたとえられており、お互いに大きな役割を担っているとともに、極めて身近な存在でもあります。看護師は、医師の役割や仕事をある程度理解していると思われますが、今に至っても、医師は看護師が行う看護の本質をある程度でも理解しているとは思われません。

 私の勤務していた前病院で、長い時間をかけて、日常の看護の際に看護理論を実践する試みを続けました。このような試みによって、私たちの病院は良い医療を提供する病院として信頼を得て地域の中で次第に発展して、結果として病院の財務状況も著明に改善しました。看護体制の充実が多額の負債の返済の大きな要因となっていたのです。一方、医師の頭を看護の本質の理解に向ける時間はありませんでしたが、医師と看護師が医療という車の両輪を担うといった体制を構築すると、良い医療が実現されるという確証を得ました。

 医学教育のどこかで、看護学という、医学とは異なる体系を構築している学問が存在するという認識をいだくことが出来れば、良い医療の実現に向けての手がかりとなるような気がします。しかし、このような体制の構築が無くても、日本の近代的医療の発展の歴史の中で、医師が看護を理解して純粋に看護の発展のために力を注いだ経緯はいくつか見受けられます。

 イギリスでは近代看護学を創設したF.ナイチンゲールが、1860年にロンドンのSt.トーマス病院内に看護婦養成学校を設立しました。一方、日本では慈恵医科大学を創設した高木兼寛が1886年に始めて看護婦養成所を立ち上げました。これには、多くの著名な婦人慈善会会員の支えがあったことも事実ですが、彼の留学先であったSt.トーマス病院での有能な看護師たちの姿を目にして、医療には医師と肩を並べるような看護師が必須であるとの信念を抱いての設立であったものです。高木兼寛は宮崎県の出身で、若くして明治維新の動乱の渦中を生き抜き、海軍軍医としてSt.トーマス病院に留学をして、在学中も内科学および外科学ともに首席あるいは首席に近い成績で注目され、日本人の誉れとも言われた秀才でした。この間に、医師としての学問の修得ばかりではなく、医療の中での看護師の役割にも深い関心を示していたと思われます。

 ちなみに高木兼寛は、後に海軍軍医総監に就任していますが、それに先立って当時陸海軍に猛威を振るっていた脚気の成因を追求するにあたり、統計的手法を取り入れて、理論的にも脚気が食事の成分による病気との考えに至り、海軍の食事内容の変更を図った結果、海軍の脚気の発症は大幅に減少しました。一方、森鴎外を軍医総監とする陸軍は、脚気の感染症説の立場を主張して譲らず、以後も多くの死者を出し続けたのは、医学史上の有名なエピソードとなっております。今日の医療においても、エビデンスを金科玉条とする風潮に対して三分の理とまではいかなくても、一分の理くらいは持たなくてはと思われます。

 高木兼寛が留学中に看護師に目を向けていたとすれば、もしかしてF.ナイチンゲールを目にしていたかもしれません。願わくば、秀才の誉れ高い高木兼寛が感心するような、すばらしい看護師を育てたF.ナイチンゲールの信条をも、もたらしてほしかったような気がします。いずれにしても高木兼寛は日本の看護師養成の基礎を作り、その精神は現在の慈恵医大の看護教育と医療に受け継がれているものと思います。

 もうひとかた、看護を真に理解しようとしていた医師を上げるとすれば、武見太郎であろうと云われています。1957年から1982年の25年間の長きにわたって日本医師会長を務めたといった面だけでも間違いなく有名人でありますが、有能な臨床家でもあったようです。おそらく日々の医療の中での仲間としての看護と看護師にも深い関心を示していたものと思われます。彼は、1961年になって、ついに“看護とは何か”という問いに答えうる人材を得ました。薄井坦子です。

 奇しくも、高木兼寛と同郷の宮崎県に生まれた薄井は、御茶ノ水女子大を卒業後に東京大学医学部衛生看護学科に学び、卒業後に日本医師会病院課に勤務しました。武見太郎との出会いでありました。薄井は武見の問いかけた“看護とは何か”を知るために、自ら現場に出向いて看護師の行動をつぶさに記録して分析し、“看護の必要度に関する実験的調査”としてまとめて、武見に報告をしました。報告を受けた武見は、直ちに看護師の専門性を認めたとの事です。研究の開始にあたって、もちろん武見は薄井に十分な時間と研究費を提供して、支えをおろそかにすることはなかったとも云われております。

 その後薄井は、日本医師会での研究を足がかりに本格的に看護学の研究に没頭することになります。武見太郎の看護に対する真摯な取り組みが薄井のその後の看護研究に、大いなる後押しとなったことは間違いないことのようです。薄井は、その後、東京女子医大看護短期大学教授、千葉大学看護学部教授、宮崎看護大学学長を歴任していますが、東京女子医大在任中の1974年にかの有名な“科学的看護論”を上梓しています。看護の現象レベルでの多くの問題が、ナイチンゲールの著作の中に解決の糸口を見つけることが出来ることを知り、看護現象を理論的に再構築してサイエンスとしての学問に仕上げました。ナイチンゲールの膨大な著作の中から、看護とは“生命力の消耗を最小にするよう生活過程をととのえる”ことであるという言葉を見い出して、サイエンスとしての看護の原理としたことは、まことに慧眼であったかと思います。

 薄井の「科学的看護論」は整然と体系化されたすぐれた理論である一方、サイエンスに馴染まない人にとってはなかなか敷居が高い理論と思われています。しかし、武見も認めたように看護に専門性があるとするならば、このような学問体系の習得は必ずやクリアされなければならないものと思われます。
医師で日本理論医学研究会代表幹事の瀬江千史は、科学的看護論を以て看護は学問となり、理論としての体系を整えたとしています。看護学は、むしろ医学よりも理論体系が整った学問といえるかもしれないとも述べています。サイエンスを掲げている医師には看護学はむしろ分かりやすいのかもしれません。

 高木兼寛が、ロンドンのSt.トーマス病院で垣間見たすばらしい看護師を日本でも育てようとして、日本で始めての看護師養成施設を作って以来、その精神は代々慈恵医大に受け継がれて、すばらしい看護師が輩出したと聞いています。最近、看護理論に基づいて看護を理論的に実践する機運が高まってきておりますが、慈恵医大付属病院でも薄井の科学的看護論の実践に真剣に取り組み始めていると聞きます。百年の時を経て、高木兼寛が目にしたF.ナイチンゲールの教えによるすばらしい看護師が、新たな装いをもって現実のものとなりつつあるということでしょうか。

 ちなみに、私は、科学的看護論を学んで実践する看護師の方々と多くの事例を検討する中で、医学と看護学は学問体系が異なるものであり、同じ患者でも異なる目で見なければならないことに気づかされました。その後、多くの方々からの示唆を頂きまして、看護学の目的に沿ったからだの見方として“器官レベルでのからだの見方”を提案いたしました。従来の臓器や病名に注目するからだの見方から、新たにからだの中の繋がりに注目して全身の状態を把握するといった見方を取り入れたもので、仲間からは看護理論の実践に合ったからだの見方ができるとの評価を頂いております。

もう少し詳しいことを知りたい方のための資料:
1)科学的看護論(第3版) 薄井坦子 著(日本看護協会出版会)
2)フロレンス ナイチンゲール 看護覚書  湯槙ます 薄井坦子 他訳 (現代社)
3)ナイチンゲール著作集(第一巻?第三巻)湯槙ます 監修(現代社)
4)実践から学ぶ看護学 ?科学的看護論と省察的実践論? 椙山委都子 著(鳳書堂)
5)看護の原点を求めて ?よりよい看護への道? 薄井坦子 著(日本看護協会出版会)
6)看護学と医学(上下巻) 瀬江千史 著 (現代社)
7)白い航跡(上下巻) 吉村 昭 著 (講談社文庫)
8)器官レベルでの病態の把握 関山伸男 綜合看護:41巻(3)?43巻(3) (現代社)
投稿者内科診療科部長 関山 伸男
「いるんですね、ピロリって。」 斎藤 琢巳
2013年05月13日
私事であるが、昨年8月に人間ドックを受けた。40歳も過ぎたことだし、胃カメラでも飲んでみようかな?という気になった。小生、医師となって17年以上が経過し、胃カメラも多少は出来るようになって久しいが、恥ずかしながら胃カメラを飲んだ事がない。今まで小生に胃カメラされた方々には大変申し訳ないのだが・・・。さてその胃カメラの結果は軽度の胃炎のみであった。折悪しく前日に病棟の宴会があり、そこそこ飲んでいたのでそのせいだろうと思っていた。しかし、2?3ヶ月たった頃だろうか、空腹時の胃痛の程度が強い。なんか変だなと思いながらも1カ月ほど様子をみていた。が、やっぱり調子が悪いということで、消化器内科のS先生に胃カメラ再検をお願いした。不安な気持ち(胃癌だったらどうしよう?)を抱えながらも気丈に(自分で言うか?)検査を受けた。検査中はじっと目をつぶっていることしか出来なかったのだが、生検鉗子を出せとか、ヒスト(止血硬化剤)出しますか?とか聞こえてきてかなり不安な気持ちになった。結局はピロリ関連の胃潰瘍と診断され、除菌療法を受け、めでたく除菌された。今回はめずらしく患者の立場になり、思うところがかなりあった。特にカメラ中に背中をさすってくれるナースの存在は大変ありがたかった。消化器内科のS先生、F先生、内視鏡室の皆様、ありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。今年もドックの時期が近づいて参りました。またお手柔らかにお願い致します。
投稿者外科医長 斎藤 琢巳