我が家では、自宅で色々な食物を栽培しています。
まずは、野菜です。
定番のトマト、ピーマン、きゅうり、なす等を毎年植えています。
特別なお手入れはしていませんが、土壌が合っているのかトマトはとても甘く美味しいです。
収穫の際は、子供にまだ緑のトマトや、まだ小さすぎるなすを取られることもありますが
楽しく行い、花の形や色を見せ食育にも役立っているのではないかと感じています。
以前は、少し変わり種を栽培していたこともありましたが、うまく育たなかったり
需要がなかったりで、ここ数年は定番の食物のみに落ち着きました。
世界トップクラスの辛さブート・ジョロキアは、沢山収穫可能でしたが素手で触れられず
ほんの少し舐めても舌がピリピリし全く消費できずに終わってしまいました。
これからの時期に楽しみなのが、きのこです。
ナラなど木に穴をあけ(種類によって適する木があります)、きのこの菌を打ち込み
適切な環境にしてやっと収穫できます。原木から収穫したしいたけ、なめこは絶品です。
きのこの収穫時期は秋と思われがちですが、しいたけは春と秋の2回収穫できますよ。
更に美味しさを求めて、栽培からは離れてしまいますが、山に自生しているしいたけを発見したく、現在調査中です。
みなさん、こんにちは。
9月に入り、北海道らしからぬ蒸し暑い夏も終わりを迎えました。
寝苦しい夜も、いざ去ってしまうと、寂しく感じるのは私だけでしょうか...。
さて、長く続いたコロナ禍も世の中的は落ち着き、今年は魅力的な夏イベントが再開されていましたね(我々医療従事者は、まだまだ油断していません)。
今年のお盆は、野外フェスやビアガーデンを横目に、お墓参りのために実家に帰省しました。その時の思い出を少しだけお話しします。
実家には弟家族も帰ってきており、3人兄弟のパワフルな甥っ子たちが迫ってきます。
ただ、昔から子供と遊ぶのが苦手な私は、今までは部屋に逃げ込んだり一人で出かけたり、「伯父さん」の役目を果たしてきませんでしたが、すっかり大きくなった甥っ子たちから、今年は逃げ切ることができませんでした。
夜、しっぽりビールを飲んでいると、長男の6歳の甥っ子がオセロで勝負をしかけてきました。
オセロなんて10年以上やった記憶がない。
でも、子供と遊ぶのは苦手でも、ルールが確立され、勝敗が決まれば終わりを迎えられるオセロなら受けてもやってもいいだろうと、3回戦の勝負を受けました。
1戦目、いざ勝負。............私は負けました。6歳の甥っ子からは、「初めて勝った、なんで弱いの?」と言われる始末。
しかし私は33歳、過去の失敗を成功に繋げるノウハウを身につけています。2戦目は勝利しました。
「大人を本気にさせると、怖いよ?」
決めセリフもいい感じに刺さったようです。
そして運命の3戦目。
私は今年、テニスの大会で2回優勝した実績と自信があります。
種目が違っても、土壇場では有利に試合をすすめることができるでしょう。
決着をつけるべくスタートした3戦目も中盤まで進み、自軍(白)が敵軍(黒)を囲うような陣形をとっています。
勝負が進むと酒も進み、ほろ酔いから酩酊状態に変わりつつありましたが、勝ちを確信して最後の決めセリフを悩み始めたころ、事件は起きました。
敗戦ムードで長考していた6歳の甥っ子が、手に持っていたオセロ石を盤の上に落とした。すぐに拾い上げ、乱れた盤上のオセロ石を整えた。いや、整えるように見せかけて、敵軍(黒)を囲んでいた自軍(白)のひとつを黒に反転させていた...!
実は、その前にも「あれ?ここ黒だっけ?」と思う節があった。私は酔っていたので確信を持てずにいたが、疑いが事実になった瞬間であった。
私は冷静に「今、裏返したよね?これで2回目だね?」と諭すと、なんでばれたんだよぉと、6歳の甥っ子はかわいい悲鳴を上げた。
そして、そのまま試合は私の圧勝に終わり、『正義は必ず勝つ』という社会の掟を教える形で、甥っ子との戦いに幕を下ろした。
スポーツマンの私は、ルールの中で競い合うことに喜びを感じてきた。なので、甥っ子が6歳から反則技を身に着けていたことに驚きと怒りを感じたが、同時に成長を感じました。オムツを履いて走り回っていた「子供」の甥っ子はもう存在せず、小学校に入学し社会の荒波に揉まれ、時にはどんな手を使ってでも乗り越える方法として、反則技を身に着けたのだろう。甥っ子は「大人」になろうともがいているのだ。
すでに終戦後のリビングには甥っ子の姿はなく、ひとりぼっちになった私は、感傷と悦びに浸りながら残りの酒を飲み干して就寝しました。
以上、夏の思い出でした。ご精読ありがとうございました。
"なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。"
上の文言は、かの三島由紀夫が、雑誌『婦人倶楽部』にて一年間連載していた、料理の様式になぞらえて世相を論じるコラム『社会料理三島亭』にて『折詰料理 日本人の娯楽』という副題で述べたものです。
なるほど、人生において大学のころより後について思ってみると、遊びの席に酒瓶の一本もなし、という場面には、数えるほどにも出くわさなかったような気がします。
COVIDで絶えて久しいですが、病院に勤めて知り合った皆さんとは、やはり社会人ですから遊ぼうというと主な機会はいわゆる「飲み会」になります。学生時代からの友人達については既に10年以上の付き合いなので、勝手知ったる仲ということで連れ立ってキャンプに出掛けたり、もう少し年の若いころには海に遊ぶこともありましたが、そういう席こそクーラーボックスの中は安酒の缶でいっぱいです。旅行をしてみても「名産と地酒で一杯」という時間がなければ片手落ちのような気がして宿だけでなく居酒屋の予約も取ってしまうものですから、個人的な考えとして上の文言については「至言だな」と思わずに居れません。ネット通話を繋いでゲームで遊ぶときにも、必ずだれかが「ビール取ってくるわ」と一時離席したりするのを見ると、インドア・アウトドアを問わず我々は無意識と言っていいほどに遊びに酒を必要としてしまっているようです。
私は酩酊の感覚や酒席の雰囲気が大好きですし、IPAの苦さやウィスキーの香りや焼酎のクセも好きですから、この風潮そのものについては特に物申したいとも思いません。むしろ歓迎するものです。大人に酒が必要なのは事実かも知れないが、何も悲しむ必要はないじゃないか――最初に引用した三島の言葉について、私としてはある時期までこのようにも考えていたのですが、ある出来事でこの悲しさの趣旨を痛感させられて以来、どうしても、人と会って遊ぶたびにこの言葉を強く意識してしまっております。
7年近く前にもなるでしょうか、ある夏、大学からの友人とバーベキューの準備をしていた折のことでした。
私は買い出しの方に参加したのでその場に居合わせなかったのですが、車と道具の準備のために残った友人たちが一年ぶりにアウトドア用品を取り出すべく、その内一人の家のガレージの奥をあさっていると、中学生の頃使っていた練習用のバドミントンのセットが出てきました。――今これを手に取ったら、どれくらい昔の勘が残っているだろう?持主たる彼はそう考えて、出発予定までまだかなり時間もあるということで準備を中断して皆で一つ戯れにそのまま庭で打ちあい始めてみたそうです。ルールも技巧も気にすることなく、半ば羽根つきのような感覚で中々楽しく盛り上がったということなのですが、そばを通りかかった補助輪つき自転車の子供に、次のように言われたそうです。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、何してるの?」
彼らはいたたまれず準備に立ち返ったということなのですが、車内でこの話を聞いて、私は「三島の言う『大人は遊びに酔えない』とはこのことだったんだ」と思いました。
補助輪を使っているような子供とはいえ、バドミントンを知らないということは無いはずです。ラケットと羽を使ってやることと言えばバドミントンしかないわけですから「何してるの?」という言葉の意味については、少し深い意味があったように思われます。その子が疑問に思ったのは、彼らがしている行為が何であるのかではなくて、大人同士が住宅街の真ん中でちょっとした道具を使って何か楽しそうにしているということ自体に対してだったのではないでしょうか。
近代美術の技法で、デペイズマンというものがあります。例えばどこまでも青い空の下、寂寥たる荒野の真ん中に、ソファとテーブルとテレビだけが、まるでどこかの居間から瞬間移動してきたかのようにぽつんと鎮座している様を想像してみてください。誰もが言い知れぬ違和感を覚えることと思います。これはなんだ、と、声を発さずにはいられないでしょう。デペイズマンとはこのように、物を敢えてあるべきでない、あるはずのない場所に配置・描写して受け手に強い印象を残さんとする表現を言うものなのですが、あの時、遊びに興じる私の友人達は、社会におけるデペイズマン的表象としてその子供の目に映っていたのではないでしょうか。大人が遊びそのものに酔うことは可能だけれど、遊びに酔う大人とは本来異質なものであって、己の持つ社会性ゆえにちょっとしたきっかけで容易にそこから醒めさせられてしまう。結局私たち大人が遊ぶにあたって酒を必要としがちなのは、極めて防御的な、回避的な行動と言えるのではないでしょうか。遊びに酔う大人と見られないために、自らを酒に酔う大人とする――最近の研究ではミツバチやショウジョウバエのような昆虫でさえも遊びとしか考えられない行動をとるのが確認されているそうです。人間の大人だけが社会的規範のために自由に遊ぶことができないというのならば、確かに三島の言う通り、嘆くべきことと言えます。
『折詰料理 日本人の娯楽』は「誰かがやるから、評判が高いからやってみるというのでは所詮他人のための遊びである。日向ぼっこでも庭いじりでもとにかく自分のやりたいことをやるのが本当の娯楽、自分のための遊びではないか」という趣旨で結んでいます。世相も変わって、この夏はかつてのように対面で遊ぶ誘いも増えてきましたが......ビアガーデン然りバーベキュー然り、やはり私と友人たちの傍らには酒が常にありました。私は酒好きを自負しておりますから『対酒当歌 人生幾何』の精神で全ての席を心から楽しんで帰ってきているつもりなのですが......無意識のうちに、大人という軛のために本当の「自分のための遊び」を酩酊で覆い隠しているだけに過ぎないということもあるのでしょうか。限られた余暇と健康寿命を考えるとき、やはり、冒頭の三島の言葉は問いかけとして私の頭の中にわだかまり続けています。
さて、原稿も終わったことですし、ハイボールかビールでも一杯。
最近AIについての議論がテレビやネットなどで大きく取り上げられることが増えました。アメリカ映画でも年老いた俳優の若い姿をAIとCGで再現するなど、今まで不可能と思われていたことが実現しています。しかし、そうしたAIの進化に対してルールの整備が追い付いていないのが現状です。
先述した若い姿を再現する技術を用いれば、一度俳優をスキャンしてデジタルデータ化すれば、本人の意思と関係なく作品に出演させ、製作者の好きなようにセリフを喋らせることも可能となってしまう。こういった懸念と現在のサブスクと呼ばれる映像配信サービスに対する俳優への還元の少なさ・不透明さに対してハリウッドで行われている大規模ストライキのニュースを目にした方も多いと思います。この騒動がどういった結末を迎えるかは不明ですが、一つの前例を作ることになり、法整備が行われていく結果となることでしょう。
これは自分たちにとっても他人事ではないと考えます。極端な話で薬剤師としても飲み合わせの問題や薬効・薬剤の重複を発見することはAIでも可能で、もしかしたらAIのほうが効率的かもしれません。他の職種の方でも同じようなことがあるかと思います。ですが、最後に責任をもって薬剤を払い出し、患者様へお渡しするのは薬剤師の仕事です。直接患者様とふれあい、適切な指導を行うことはAIや機械にはできない仕事と思っています。
AIによる労働の変化を迎えつつある新たな時代の中でも人間として、薬剤師として何ができるのか何をするべきなのかを今一度考えながら日々の業務を行っていきたいと思います。
先日、看護学校の宣誓式に出席してきました。
「戴帽式」の方が聞き覚えがあるでしょうか。看護学生さんが病院実習に臨む前にナースキャップを与えられ、職業意識を高める儀式です。
今は衛生上の問題等でナースキャップが廃止されている所がほとんどなので、「宣誓式」や「継灯式」と呼び名が変更されたり、式典を行わない学校もあるようです。
私は以前テレビで戴帽式を見て、その厳粛な雰囲気に一度実際に見てみたいと思っていましたが、友人の子が通う看護学校で宣誓式が行われると聞き最初で最後のチャンス!と一緒に出席させてもらいました。
式典が始まり校長先生の式辞を拝聴したあと、いよいよ見たかった儀式が始まります。
電気の消された式場で、ステージ中央にあるナイチンゲールの像に点灯された灯を、学生さんが一人一人自身の持つキャンドルに受け取ります。これはナイチンゲールが野戦病院で夜中にランプを手に傷病者を見回ったことにちなんで、看護の灯を受け継いでいくとの意味があるそうです。キャンドルの灯る中、看護師に必要な心構えの込められた「ナイチンゲール誓詞」を学生さん全員で斉唱し、看護の道へ進む決意を新たにします。
私も病院で働く者として身の引き締まる思いがしました。この機会を与えてくれた友人家族に感謝です。
看護師は昔から3K(キツイ・汚い・危険)といわれる大変な仕事です。私も勤務の中で身を粉にして働く看護師の姿を見てきました。志を持って看護師を目指す学生さんに尊敬の念とエールを送りたいと思います。