「医師リレーエッセイ」をはじめます。
2011年10月14日
このたび当ホームページにおいてしばらく更新が滞っていた「医師リレーエッセイ」を再開することにしました。札幌徳洲会病院に所属する医師により、週替わりで文字通り「リレー」していく予定です。当院に所属する医師が、普段どのようなことを考え、どのような事に興味をもっているのか、なるべく幅広い意見、考えをエッセイに反映するため、今回は特定のテーマに限定せずに各医師に原稿を依頼してあります。
このリレーエッセイが、当ホームページをご覧のみなさまに札幌徳洲会病院をより身近に感じてもらえるきっかけになれば幸いです。
投稿者ホームページ委員会長 片田 竜司
三上先生からのお手紙
2011年06月22日
前略

先日は突然訪問し、申し訳ありませんでした。先生にお会い出来たので大変有意義でした。

御存知のように、私は、1期目森先生、2期目佐藤先生の後に3期目として昭和62年札幌徳洲会病院で研修致しました。同期は、現副院長の小野寺先生、前野先生、富樫先生、練合先生、品田先生、そして私の妻のむつみの大量入局でした。

貴院での3年間の研修で、他のコースに進んだ同期より数倍の西洋医学的研修が出来たと思います。

縁あって八戸のA病院の開設に参加することになり、精神科160床、内科40床の内科医長(私一人しかおりませんが)として、妻と共に赴任しました。ある時、病院の事務職員が風邪をひいて、私が診察しPL?を処方しましたが、院内で何故か私に対する異様な雰囲気を感じるようになりました。後日判明したところでは、その職員にはPLが効かなかったとようで「ウチの内科の先生は、風邪も治せない(ヤブ医者)」との風評が広がっていたようでした。

大病院の内科部長や大学病院の資格というキャリアをもって赴任したのならともかく、青森県内ではほとんど認知の無い札幌の徳洲会病院から、何のツテもなくやってきた私にとっては、大変な試練でした。医学生時代に東洋医学研究会に6年間在籍し漢方の知識があったので、その後は、風邪に対して漢方治療をする事に決め、結果、失っていた院内での信頼を勝ち得たのです。

A病院勤務時代に忘れられない思い出があります。私自身が水虫に罹ってしまったのです。西洋医学の軟膏で簡単に治ると思ったのですが、数種の軟膏もまったく効果がなく、水虫に対する薬剤も経口する様になり、おかげで当時、郵便局の簡易保険に入れませんでした。経口剤も効果がなく、「今まで水虫の治療を、他の患者さんにしてきたのに、西洋医学がこんなに効かないものとは・・・」と打ちのめされてしまいました。その当時、患者さんを診察する際には右手の水虫の患部を見られないように必死で隠したり、スーパーでもレジで支払う際、店員に右手を隠して左手で支払いしたりと、そんな苦労話には言を欠きません。それより何よりも患部の炎症がひどく、夜も眠れない状態となりました。同期の皮膚科の友人に経緯を話し「炎症を抑える為だけでもステロイド軟膏を使ってもよいか」聞いたところ、「可」との事でしたので、ステロイド軟膏も使用しましたが、これもまったくダメでした。

そんな時、思いあまって使ったのが、当時A病院でたまたま採用していた漢方薬『治頭瘡一方』でした。これを一服飲んだ途端あの水虫の痛がゆみが、あっという間になくなってきたのです。
その時の顛末は、医学書院より分担執筆で『水虫の漢方治療』にまとめました。これは約20年前、京都で開かれた日本東洋医学会に、この経験を発表したところ、大変注目を浴び、医学書院からの執筆依頼でまとめたものです。
最近では慢性腎不全を漢方薬で治した例があります。これは、昨年の日本東洋医学会東北支部会にて発表し現在は学会誌に投稿準備中ですが、内容は、約10年間の経過中に、最悪時は年平均クレアチニン値が2.0?/?を超えていた患者さんが、漢方薬で最近は0.8?/?前後で安定しているというものです。漢方の世界でも当然、腎不全が治るという発表は過去にありませんでした。

現在の私のテーマは、「漢方と西洋医学の統合」です。過去の先達も多くトライしてきましたが、誰も成し遂げられていません。最近は、これに対する大まかな骨格が把握できる様になり、治療上で困る事がほとんどなくなってきています。

札幌徳洲会におかれましても、西洋医学で難渋する例には漢方の視点を持っていただければとの願いを持ちつつ雑文を閉じたいと思います。(尚、文献等希望があれば御連絡下さい)
新病院の落成を心待ちにしております。

早々

八戸市下長三丁目21-19 下長内科クリニック
三上信久
投稿者
「災害医療活動に参加して」
2011年04月27日
4月6日?11日までTMATの東日本大震災災害医療活動に参加しました。

私は宮城県古川市(現,大崎市)の出身であり,幸い身内への被害はありませんでしたが郷里の被災者の方々の少しでも力になれればと思い参加しました。

4月7日,仙台徳洲会病院の救急外来を担当後,4月8日早朝に今回の津波にて甚大な被害を来たした宮城県南三陸町に向け出発しました。同町に入ると町は瓦礫と化しており,想像以上の惨状に息を呑み,『津波さえなければ』と思うと胸が詰まる思いがしました。
避難所である『ベイサイドアリーナ』という総合体育館内に設置された仮設診療所にて,同日午後から診療を行いました。大半は高血圧症や糖尿病等の定期処方,感冒・花粉症・急性胃腸炎等の疾患が中心でした。入院の適応となる患者もおり,診療所内で可能な簡単な血液検査や胸部・腹部レントゲンといった限られた検査での確定診断は困難であり,脳梗塞や急性腹症などの疑いにて他院への搬送が必要となりました。津波のため,地元の中核病院であった公立志津川病院が壊滅的な被害を受け再開の目処が立っていない現在,入院を要するような患者においては,(救急車でも)1時間以上要するような遠隔地の病院への受診が必要な状況であり,ライフラインの途絶のみならず,医療の面においても不自由な生活を強いられている被災者の方々の現状を痛感しました。

災害医療への参加は初めてであり,当初は様々な不安がありましたが,一緒に参加した医師・看護師・薬剤師等のスタッフの方々にも恵まれ,初対面にしてはチームワークも良く,充実した仕事を行うことができました。ようやく仕事にも慣れたところで離れることとなり,最後は名残り惜しい気持ちで一杯であり,微力ではありましたが達成感からか感無量でした。このような機会を与えて頂いた病院関係者・TMAT関係者・一緒に仕事をさせて頂いたスタッフの方々に心より御礼を申し上げます。

被災地の一日も早い復興を心よりお祈り致します。
投稿者消化器内科医長 佐藤康永
がんばろう日本:徳洲会も応援します
2011年03月31日
その時私は、数時間後に迫っていた実父の通夜を家族葬にて執り行うべく、実家で最後の準備をしていた。3月11日午後2時46分、札幌でも強い揺れを感じた。早速テレビのスイッチを入れたが、緊急地震速報と津波警報が流れてきた。三陸海岸を中心とした東北地方では、8メートルにも及ぶ巨大な津波が、これから短時間で襲ってくる可能性が大きい旨の報道であった。その後札幌でも2度ほどの余震が感じられた。画面に映し出された光景は、想像を絶するものであった。幾多の町並みが,成すすべもなく瞬時に飲み込まれてゆく。さらに高台にやっとの思いで逃れる事のできた住民の呆然とした表情が映し出されていた。余りにも突然で、警報を察知できない方たちも多数居られたことであろう、病院などでは寝たきりの療養生活を余儀なくされておられる方々も少なくないであろう、学校に居る児童、生徒たちは無事避難できたであろうか、瞬時にいろいろな思いが駆け巡ってきた。翌朝僅かな時間見ることのできたニュースで、被害の甚大性を再認識した。
 
その後は亡くなられた方や行方不明の方々の人数が、日増しに多く報道されるようになった。また被災場所は十分確保できるのか、被災者の方々の食料はうまく行き渡り、健康状態は保たれるのか、病院などでの医療は少しでも本来の体制を維持できるのか、特に透析療法の如き、生命の維持に直結する医療業務の継続は可能なのか、などの不安が強くよぎって来た。 

我が徳洲会は、NPO法人TMAT(徳洲会医療救護隊)がいち早く各地より出動し、東北地方の拠点病院である、仙台徳洲会病院で現地の救援に当たり、更に被災地へと進んでいった。日々の活動は困難を極めているが、医師、看護師、薬剤師、管理栄養士、事務職など多方面のエキスパートによる献身的な努力が現在も続いて行なわれている。 

被災地の透析医療は、水、電気などのライフラインが壊滅的被害を受けたため、早急に非被災地域の透析施設による代替治療が迅速に要求される。日本透析医会は、被災地の透析患者さんを、東京都、千葉県などの近隣の施設に搬送するのみでは不十分であったため、航空自衛隊の輸送機で宮城県の松島基地より北海道の千歳基地まで80余名を救急搬送していただいた。これには阪神淡路大震災の教訓が生かされた。札幌徳洲会病院は最多の8名の患者さんの入院をお引き受けし、血液透析を継続することになった。当院に長旅より到着された患者さんは、流石に疲労の色を濃くしておられたが、入浴、夕食を済ませると皆様は、久しぶりに楽になりましたと、笑顔で答えられた。病棟および透析センターの看護師、臨床工学技師、栄養士、薬剤師、事務職の皆さんも、自分たちのそれぞれの専門領域で何をすべきかを十分理解して患者さんたちに接していただいた。病院スタッフと患者さんが次第に打ち溶け合って、様々な身の上話などもできるようになり、当院に外来通院している他の患者さんたちとも交流を深めることも可能となった。 

北海道に搬送された患者さんは、長時間の移送に耐えねばならなかったため、歩行、食事および排泄、コミュニケーションがある程度自立していることが必要であった。被災地には移動もままならぬ透析患者さんも、多数居られるものと思われる。何とか全ての患者さんに対して、普段と同じような治療ができる体制を作り出して欲しいものである。また遠隔地に来られた患者さんは、長期間家族と離れて暮らさざるをえない状態を余儀なくされることになる。何とか家族も患者さんの元に参集できるように、住宅などの施設を提供することができないものかと痛切に願っている。実現するためには国家、地方自治体さらに社会の協力が是非とも必要であろう。 
 
人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちが今できること、それはこの大会を精一杯元気を出して戦うことです。がんばろう、日本。生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。 
これは3月23日に開催された選抜高校野球での、16年前の阪神淡路大震災の年に生まれた、岡山県創志学園の野山主将の選手宣誓の一部です。宮城県の東北高校は、甲子園に出発する直前練習の最中に被災した。その後彼らは野球の練習より今やらねば成らぬ大切なことがあると、被災地でのボランティア活動に打ち込んだ。そして出発の際には多くの被災者の熱烈なエールに送られて甲子園に乗り込むことができた。 
 
 がんばろう、日本。いかなる人も一人では生きて行けないのだから。徳洲会の全ての人も皆で頑張りましょう。 
投稿者透析腎臓内科部長 横山 隆
当院初期研修終了生からの手紙
2010年11月17日
ご無沙汰しております。現在某大学病院救急科に勤務しております。

11月3日、とうとうというかようやく新病院建設に向けて一気に進んでいっているのですね。おめでとうございます。
自分の近況についても全く話ができていませんでしたので、ちょっとだけ報告します。

徳洲会を離れて、京都市内の大学で麻酔科に3年ほど入局しておりました。まあ、大学に行ったことは全く後悔していません。むしろ出て良かったと、思っています。やはり症例が非常に豊富であること、滅多にであわないような疾患にであうことは、非常に為になりました。また違った環境で仕事をやることはもうとっても大変でしたが、いい刺激になったと思っています。運良くいい同期にも恵まれました。大学で勤務している間も徳洲会での当直が忘れられず、こっそり先輩に教えてもらって当直しにいっていました。

大学で1年ほど働いた後に外病院へ出してもらいました。そこではまた違った経験をさせてもらいました。その病院は人が非常に少なく、一人当直をやる機会がありました。自分が喜んでしているのをみて変わった麻酔科医がいるものだと思われていたようでしたが、困った際にはいろいろ助けていただいて非常に為になったと思います。ここでは、麻酔をやるだけでなく、自分の当直時に困らないようにICLS、ISLS、JATEC、JPTECなどを受講しにあっちこっちを回っていつしか教えてもらう側から、インストラクターとして教える側にまわるようになりました。

これをすこしでも研修医に還元しようと、コースに連れて行ったり、勉強会をやったり色々してみました。徳洲会でこれはよかったと思うこともやってみました。それが朝やっていた症例検討会です。最初はどうやればいいのか研修医もわからず、それを伝えるのに苦労して、実際自分が経験した症例を発表しながら、こういうことをやってほしいと伝えましたが、なかなかうまくいかないものだと痛感しました。自分自身がやはりまだまだ勉強不足なんだろうなあと思い、色々持続するようにあまり口やかましく言わずにやることにしました。
自分が目指したものにはなかなか到達しませんでしたが、院長や副院長の協力の下今も継続されているようです。

で、今は岡山にいます。将来的には、札幌でやっていたような救急をまたやりたいと思っているのですが、その前に集中治療を勉強して、もっと重症患者を管理することができたらと思っています。まだまだ始めたばかりで全然うまくいっていませんが、楽しくやっています。まだ麻酔も好きでやめられずにバイトにいっています。

時間に余裕が出たら札幌徳洲会で麻酔や当直のバイトもやってみたいのですがどうでしょうか?
またいつか札幌徳洲会で働けるチャンスがあればと思っています。

投稿者
カレンダー
カテゴリー