「いびきのない 安心で良質な睡眠を」 後平 泰信
2017年07月31日
いびきや眠気でお悩みの方はいませんか?人生の1/3は睡眠で、生きていく上で欠くことはできません。特に日本人は先進国の中でも睡眠時間が短く、睡眠の質が重要ですが、この質が妨げられる病気が「睡眠時無呼吸症候群」です。

いびきをかく人の約5割、日本に約500万人の患者様がおります。太った方や顎が小さい方に多く、寝ると舌が喉を塞ぐことで起こります。眠りが浅くなり日中の眠気や集中力の低下を招くほか、心筋梗塞や脳卒中、高血圧などの危険性が増します。また、これらの病気がある方が睡眠時無呼吸症候群をお持ちのことも多いのです。それから、睡眠時無呼吸症候群が原因で交通事故を起こす確率が約7倍に増えてしまいます。ご自身、家族や相手の命を守るためにも、疑いがあればきちんと検査、治療をすることが大切です。
 
睡眠時無呼吸症候群かどうかを調べる方法は、まずご自宅に小型の機械を持ち帰っていただき、簡単な検査をします。疑わしい場合には1泊入院による精密検査をすることで診断することができます。睡眠時無呼吸症候群の治療では、最も効果的な方法に「CPAP(シーパップ)」療法があります。鼻に装着したマスクから空気を送り込み、気道を広げる治療法で、国内でもすでに約40万人の方がこ
の治療を受けられています。CPAP治療を行うといびきや無呼吸が無くなり、眠気や疲れが取れ、さまざまな病気の予防にもなりま
す。そのほか、口にはめるマウスピースによる治療も選択することができます。
 
安心で質の高い睡眠のために、睡眠時無呼吸症候群の治療を行うこと、またそれ以外にも睡眠全般に関する日常生活の注意点、寝具なども含めた睡眠環境に関するアドバイスも受けられますので、何か睡眠に関してお悩みの方がいらっしゃれば、我慢せずに専門家に相談をすることが大切です。

投稿者循環器内科医師 後平 泰信
「こどもたちの医療のために」 梶野 真弓
2013年04月01日
札幌に異動し当院小児科に勤務して8ヶ月になります。札幌という大都会にはたくさん病院がありますが、病院がたくさんあるからこその問題もあるようです。人口も少なく大きな病院もわずかという地域では、地域の患者さんはまずその病院にかかります。いつでもかかることができるという安心があります。札幌のようにたくさん病院があると、病院を選び、時には希望の医療を受ける為に全く反対の地域までいかなければいけないことも少なくありません。札幌は小さな北海道のようだと働いてみて感じました。
北海道はとても広く、医療においてはその広さが問題になる事がたくさんあります。北海道の人口は日本の総人口の4%余りですが、面積は20%を占めています。面積は東京の約25倍ですが、人口密度は1/100であり、私の前任地である上川地区などは1/400です。こういった地理的状況では、車や電車で数時間かけて専門医のいる都市部の病院に行く、時には飛行機で行く、逆に医師が何時間もかけて地方へ出張に行く、こんな事があります。
小児の患者さんの多くは発熱などのいわゆるかぜのような症状で病院を受診されますが、非常に重篤な状態のお子さん、救急患者さんもおられます。救急患者さんが適切に小児科専門医の治療を受ける、重たくない症状のお子さんも安心して病院にかかり治療を受けるにはどうしたら良いか、小児科医としてどうすべきか随分考えました。医師の集約化が進み高度医療ができる施設ができても地理的問題の解決にはなりません。
救急患者さんに適切な初期医療を行い専門医施設に送る判断をすることができる医師、スタッフ、施設を人口の少ない地域にも増やす為に質の高い小児救急の講習会を北海道で広める、そう考えるにいたりました。そのための講習会を北海道に導入してもう今年で9年目になります。日々地域のこどもたちのため良い医療を提供しようとがんばっている小児科医や救命救急医の仲間が力を合わせさらに多くの仲間を増やそうとしています。こどもたちが自分の町の病院に安心してかかることができる、それが願いです。
投稿者小児科医長 梶野 真弓
当院初期研修終了生からの手紙
2010年11月17日
ご無沙汰しております。現在某大学病院救急科に勤務しております。

11月3日、とうとうというかようやく新病院建設に向けて一気に進んでいっているのですね。おめでとうございます。
自分の近況についても全く話ができていませんでしたので、ちょっとだけ報告します。

徳洲会を離れて、京都市内の大学で麻酔科に3年ほど入局しておりました。まあ、大学に行ったことは全く後悔していません。むしろ出て良かったと、思っています。やはり症例が非常に豊富であること、滅多にであわないような疾患にであうことは、非常に為になりました。また違った環境で仕事をやることはもうとっても大変でしたが、いい刺激になったと思っています。運良くいい同期にも恵まれました。大学で勤務している間も徳洲会での当直が忘れられず、こっそり先輩に教えてもらって当直しにいっていました。

大学で1年ほど働いた後に外病院へ出してもらいました。そこではまた違った経験をさせてもらいました。その病院は人が非常に少なく、一人当直をやる機会がありました。自分が喜んでしているのをみて変わった麻酔科医がいるものだと思われていたようでしたが、困った際にはいろいろ助けていただいて非常に為になったと思います。ここでは、麻酔をやるだけでなく、自分の当直時に困らないようにICLS、ISLS、JATEC、JPTECなどを受講しにあっちこっちを回っていつしか教えてもらう側から、インストラクターとして教える側にまわるようになりました。

これをすこしでも研修医に還元しようと、コースに連れて行ったり、勉強会をやったり色々してみました。徳洲会でこれはよかったと思うこともやってみました。それが朝やっていた症例検討会です。最初はどうやればいいのか研修医もわからず、それを伝えるのに苦労して、実際自分が経験した症例を発表しながら、こういうことをやってほしいと伝えましたが、なかなかうまくいかないものだと痛感しました。自分自身がやはりまだまだ勉強不足なんだろうなあと思い、色々持続するようにあまり口やかましく言わずにやることにしました。
自分が目指したものにはなかなか到達しませんでしたが、院長や副院長の協力の下今も継続されているようです。

で、今は岡山にいます。将来的には、札幌でやっていたような救急をまたやりたいと思っているのですが、その前に集中治療を勉強して、もっと重症患者を管理することができたらと思っています。まだまだ始めたばかりで全然うまくいっていませんが、楽しくやっています。まだ麻酔も好きでやめられずにバイトにいっています。

時間に余裕が出たら札幌徳洲会で麻酔や当直のバイトもやってみたいのですがどうでしょうか?
またいつか札幌徳洲会で働けるチャンスがあればと思っています。

投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年10月15日
卒後4年目の泌尿器科医です。

札幌徳洲会での初期研修を終えて2年目になります。初期研修時代は泌尿器科領域の疾患に関わることがほとんどなかったため、後期研修はまた一からの勉強のつもりで大学の医局に入局しました。Standardを学ぶ・情報量の多さという意味では大学に所属するのも悪くないと思います。予想通りの縦割りの社会ですが、規模の大きなカンファレンス・論文・学会発表など、初期研修時代は触れる機会が少なかったことを多く経験でき、医師として最先端を学ぶこと・発信することの重要さを今は感じております。

泌尿器科という特性上、夜間呼ばれる頻度も少なく、初期研修時代よりは比較的平穏に過ごしております。半年前から函館の市中病院に勤めておりますが、今でも休日は家族で市内を観光しています。そのぐらい観るところがたくさんあり、食べ物もおいしく函館はいい所だと思います。

函館市は2次救急当番病院が輪番制になっており、初期研修時代は幻聴まで聞こえたあの救急車の音を聞くことは少なくなりました。それでも当直の際は多科にわたる患者を診る機会が多く、札幌徳洲会病院で初期研修をしてよかったと思う事が多々あります。徳洲会初期研修の特徴の一つに救急外来がありますが、第一線で患者を診ることがやはり一番勉強になったと思います。屋根瓦式ではなく鬼瓦式だったため、大変でつらい場面も多くありましたが、非常に多くの患者を自分で診ることで、責任感・判断力など医師としての基本姿勢を学ぶことができたと感じています。自分で診断した虫垂炎を執刀させていただき退院まで診る機会も一度や二度ではなく、医師としてとても嬉しかったことを今でも思い出します。上級医の先生も札幌徳洲会出身の方が多く、他病院と比べ医局の雰囲気もよかったと思います。夜中でもすぐに対応していただき、非常に心強かったです。

初期研修制度が始まり、各病院で様々な研修が実施されています。研修医だからといって、全てが許される時代ではありません。そのためポリクリの延長となってしまう研修病院も多くあります。10年後の自分がどう感じるかわかりませんが、医師としての大事な最初の2年間を札幌徳洲会で過ごせたことは、今自分にとって大きなプラスになっています。

新病院の着工も決まったとのことで、これからも札幌徳洲会出身の研修医がどんどん増えることを期待しています。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年09月28日
大変ご無沙汰いたしております。近況報告、思い出話含め、お便りさせて頂きます。

まずはじめに正直申しまして、この初期研修終了生からの便り、楽しみに読ませて頂いております。 自分の先輩後輩同期とは中々連絡も取れないため、それぞれがいまどこで何をしているのか、うかがい知ることができます。ありがとうございます。便りを読み、どなたか分からない方も 何人かおられます・・・。

さて、私は大学卒業後すぐに札幌徳洲会病院に入職(入隊)し、いわゆる2年間のスーパーローテート 研修を終え、「循環器内科」を将来の専攻と決断しました。現在はとある心臓専門病院へ勤務しております。 大学医局には属しておりません。現在働いている病院は「心臓血管系」の専門病院であり、「小児循環器」 「不整脈」以外は緊急症例、準緊急症例、待機的症例ともにそれなりに多く、貴重な経験ができていると 思っております。しかし、単科の病院なので、不便な点が多いのもまた事実ではあります。

今は、夜間当直していても、レントゲン一枚のために基本的には当番の放射線技師さんを院外呼び出し しなければなりません。血液検査にしても、結果が出るまで何時間…。という環境です。日中でも夜間でも いつでも緊急検査ができる徳洲会のシステムは患者さんにとって非常に素晴らしいものだと再認識しました。

そしてその「いつでも緊急検査ができる環境」になれていた私にとって、このゆっくりの-しかし世間では普通であろう-システムに慣れるのに時間がかかりました。今では、再び徳洲会病院のレジデント当直をしてみたいとさえ思う今日この頃です。救急車が同時に何台も来る…そしてWalk in患者さんも待っている…あの刺激的かつ濃厚な生活をしてみたい衝動にかられることがあります。ちょっと機嫌の悪そうな上の先生に 症例の相談をするのがとても大好きでした。典型的「M」なのでしょうか。 それは冗談にしても、たとえメタボになろうとも体のキレがなくなろうとも「情熱」のあるうちは「救急」のある病院で働きたいと思っています。

お話かわって・・・ 僕の初期研修同期は自分を含め、7人いました。皆同時に3,4日に一回の当直から始まり、2年間終了後に病院に残った者、他施設へ羽ばたいた者それぞれでした。同じ道に進んだものは誰一人おりません。我々の原点はやはり札幌徳洲会病院にありきです。私は10年、20年先も、どこかで白衣を着、聴診器をクルクル回していると思います。

心は熱く!頭はクールに!技術と愛のある医師になっている事を誓います。

それでは。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年09月09日
ご無沙汰しております。皆さんはいかがお過ごしでしょうか?お世話になっていた時期に比べ、様々な変化があったことでしょうが、忙しい毎日が続いているのは変わらないことと思います。

私は、初期研修の2年間を貴院で過ごさせていただいた後に、精神科医として働き始め精神科医としては今年で5年目になります。現在は、神奈川県内の単科の精神科病院に勤務しています。元々、精神科医を志していた私は、精神科医になる前に、身体に起きる疾患への対処をなるべくたくさん経験できる環境に身を置きたいという思いで、貴院での研修を希望しました。予想通りと言いますか、多忙ですが充実した日々を過ごし、当直明けの屋上での一服は「今日もがんばったなぁ」という思いに浸ることができ大好きな時間でした。上級医やベテランスタッフからの疲労困憊した中での指導も、今となっては甘酸っぱい思い出であり、現在も日々の臨床の中で血となり肉となり生きています。

初期研修を終え、満を持して新たな環境で始めた精神科医としての生活は、決して期待していた程の充実感や達成感を与えてくれるものではありませんでした。身体的な労働量は圧倒的に研修医時代のほうが多いのですが、患者さんの持っている苦痛はその場の一回の診察や薬物療法で改善されることはまず稀であり、提供するサービス(精神療法など)が確固として統一された基準にのっとったものではないことから(そこも好きで選んだのですが…)、自分の発する言葉や自分の見立てが患者さんに与える影響や、患者さんから要求されたことに応じないのは自分が怠惰だからではないのか等々、二度目の思春期のように悩みまくってしまいました。

今にして思えば、自分にとっての仕事とは何か?や、人生とは何か?といったことについて、きちんと考えたことが無かったという自分自身の問題であったように思われます。考えたことが無かった故の、我武者羅さといったものは失われてしまったような気はしますが、少しずつざわついていた気持ちは落ち着いてきているように感じています。

医師になって自分としては、まだ7年という気持ちでいましたが、まだ7年目の医者にも当然後輩ができます。貴院でいただいた諸先輩方の指導を自分なりに咀嚼し、後輩達に伝えていくことが出来ればと思う今日この頃です。

いつもは独創性に富んだ発言ですぐに理解できないことが多かった先代の院長のことばで、「(手術が難航した際に)腹をくくって、一晩でも続ける覚悟をしろ」といった内容のお話をされたのが胸に残り、「ここ覚悟かな」などと精神科医になった今でも時々思い出しています。

みなさん、くれぐれもお身体には気をつけて。いつの日かゆっくりお話しできる日が来ることを楽しみにしながら筆を置かせていただきます。それでは。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年08月18日
『私が研修医だったとき 』


私は、札幌徳洲会病院に外科後期研修の2年間を含め、計4年間お世話になりました。 あっという間に一年が経ち、愛知県がんセンターの2年目レジデントとして、癌治療の 勉強をしています。

がんセンターは学会発表が多く、年10回近くは発表があります。 文献は検索ソフトが充実しているので、困りません。医学中央雑誌やパブメドなど使っています。 ほしい文献は、図書室の秘書さんにいえば取り寄せてもらえます。 上司にあうと、いつの学会にこれを出してくれと言われるので、びくびくしています。

私が朝、7時半に子供を保育園に送っていきます。 (お迎えは、妻が6時ころに行きます。) 曜日によって違いますが、たいていは8時くらいに自宅に帰ります。そのころには、 子供は寝る準備をしています。
毎日、二人で、子供の面倒を見ないといけないので大変です。まだ、夜泣きをするので、 毎日が当直状態です。(少しずつ起こされる頻度は減ってきましたが、、、、)

名古屋は、便利がいいので、車で2-3時間あればいろいろな所に行けます。
日本三大温泉の下呂温泉が高速で飛ばせば2時間弱で行けます。そのほかにも、 日本アルプスなど自然豊かです。夏休みは、八ヶ岳に行こうと思っています。 ただ、名古屋は空気が汚いです。おかげで最近よく咳が出ます。


札幌徳洲会病院にいたときは、緊急手術は当たり前で、急性虫垂炎・胆石胆嚢炎・腸閉塞など その他たくさんの疾患を見てきました。それが普通でした。
しかし、今の病院はまったく対極の位置にある病院です。緊急手術はほとんどありません。 研修医のときにビクビクしていた救急車のサイレンの音をほとんど聞くこともありません。 急性虫垂炎の患者も診察することはありません。ただただ、診断がついている胃癌の手術を 毎日行う日々です。毎日、同じ手術をしているために、非常に勉強になります。 だれでもそうだと思いますが、同じことの繰り返しをすることで、身につきます。 今、私のしていることは、消化器癌の手術の反復修行なのです。

極端な二つの病院、急性期病院の徳洲会と、癌専門病院であるがんセンター、 どちらもとても勉強になるところです。

なにを書けばいいかが、わからなくなりましたが、これは私が研修医だったときのことでしたね。

今から思えば、ためになったなぁと思います。

週2回の当直、何台も来る救急車。時には、救急車が来てないときも、自分の耳に救急車の サイレンの音が聞こえる幻聴に襲われていました。救急車が来たら、まず診察。次に検査と 上級医コンサルト。私の上級医は、1年上の偉い先生?であり、とても厳しかったことを思い 出します。(あまりにも苦い思い出が多いのでこの話しはここまでとします、、、、、)
人は、いい思い出よりも、悪い思い出を先に思い出すものでしょうか?先に、悪い思い出を 思い出してしまいましたが、徳洲会のほとんどの先生は、同じ研修を終えた経験のある 先生方で、とてもやさしく教えていただけました。医局には垣根がなく、どの科の先生にも 聞ける環境が整っており、緊急透析・緊急カテ・緊急内視鏡・緊急手術などもすぐに引き受けて いただけました。

そんなこんなで、なんとか時が過ぎ、今の自分がいます。 すべては「ご指導の賜物です。」ありがとうございました。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年07月22日
『榛原総合病院での応援を終えて』


医師になり今年で4年目になりました。
この三年間多くの経験をしながらも、自分の医師生活の基盤は、振り返ると徳洲会に
あるのだなと実感しています。
この数カ月の間、静岡県の榛原総合病院の立ち上げを手伝う為に、初めて本州に渡り(生まれも育ちも北海道であるためですが)、内科医として働いてきました。
立ち上げの際の病院というものは、色々なことが未確定であり、そこで働く人たちの苦労が如何程大きいかと肌で感じながらも、自分なりにできることを探し、ただひたすら働く数ヶ月でした。
医師、看護師を含めすべての職員が大変な苦労をしながら働いている中で、自分もその一助となるべく、微力ながら自分なりに役割を果たそうと務めたつもりです。
今までは、どこで働いていても研修医という名目で守られてきましたが、そのような甘えが常に許される環境ではなく、患者さんや御家族と一人でも向き合わなければならない場面に遭遇することが多かったと思います。
徳洲会で育つと、良くも悪くもそのような場面はある程度経験するのですが、それでも医師として初めて味わう不安や疲労から、逃げ出したくなることも多々ありました。

初期臨床研修医制度が確立し、そしてまたその変革を迎えようとしている時世の中、どのような医師教育が一般的なのかは自分にはわかりませんが、自分が受けてきた教育もまんざらではないのかもしれないと、この数カ月で思いました。なぜならそのような環境の中で耳から離れなかったのは、初期臨床研修時代の恩師達の声だったからです。

自分は初期臨床研修を札幌病院で過ごし、医師としてのスタートを切らせてもらいました。今でもハードワークと、やや理不尽な環境を思い出すことがあり、思い出す内容によっては苦虫を噛むような顔をしてしまうことがあります。

しかしながら、今の時世であれだけ厳しく自分達を怒ってくれた先生方に大変感謝しています。なぜなら、逃げ出したくなった場面では、必ずその先生方の言葉が浮かぶからです。
外科研修をしていた時ですが、当直明けで睡眠もとれず、そのまま何件も手術に入り、緊急オペが続いた日があり、半分閉じかけた眼をしていた自分に、その時の指導医は『頑張らなきゃいけない時はあるんだよ!』と、一喝しました。理解しながらも体力の限界を感じていた自分は、何てことを言われるんだろう、思いやりってものがないのか?と、その当時思いましたが、榛原病院で自分を支えたのは、その『頑張らなきゃいけない時はあるんだよ!』の一言でした。
自分に怠け心があるのは自覚していますし、それは油断するとすぐに顔を出してきます。ただし、今回は自分がそこで踏みとどまらなければ、冗談抜きに誰もいないのだという環境でした。頑張らなきゃいけない時だったんだと思います。

初期臨床研修が多様化してきており、医療に対する視線が厳しい昨今、徳洲会のような研修が一般的に許容されるのかどうか、その判断はできません。
しかしながら、今回自分が受け持った患者さんに向き合うことができたのは、そのような環境で育ち、少しずつですが医師としての自覚を持つようになったからだと感じています。
今は札幌東徳洲会で消化器内科の後期研修医として勉強の日々ですが、いつか自分が指導医の立場になった際に、自分についてくれた後輩医師が、医師としての自覚を持ってくれるように、古いようですが背中を見せられる姿でありたいと願います。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年06月23日
現在、普天間問題で話題になった島で働いています。

数ヶ月に1回、仕事の内容を変えて気分転換のはずが、毎日雨です。
今年は梅雨明けが遅れているようです。
島のあちこちには、”基地反対”の看板が立っていますが、口蹄疫騒ぎで、マスコミもまったく寄りつかなくなったようです。
もうこの話題はおわったのでしょうね。

今回は1週間の滞在。
病院の2階で生活しながら、毎日患者さんを診察し続けています。
日中は総合外来。夜は当直。時に連直。入院中の患者さんの管理もしますし、場合によっては処置を頼まれることもあります。
内科外科小児科ほか問わず、自分の能力を超える症例にももちろん出くわしますが、そんな中で学べることが多々あり、今年で3年になります。

さて、こんな総合外来ですが、もちろん医療水準なんて、都会の大病院とはわけが違い、性能のいい機械があるわけでも、気が利くコメディカルがいるわけでもありません。
病院の質としては高いなんてお世辞にも言い難いものがあります。原則自分一人でやらなければいけないですし、何より、何がどこにあるのかすらわからない、そんな状況ですが、あまり気にならず楽しんで働けたりもします。

効率や売り上げも病院には大事だとは思いますが、それ以前に病院は島内にここをいれて2つしかないので、あるべくしてある、そんな中で何でもみますよ、というのは非常にやりがいがあることだと思います。自分にできなければ、場合によっては自衛隊さんの力を借りて本土に患者さんを届けることもあります。何度か研修医のときに経験したことが実は今でもいきていたりします。

総合病院でよく見る光景、”それは本当にうちの科の患者さんですか?”
当直中によく聞かれる会話 ”それは外科系ではない”から内科の先生に診てもらえ”


うちの科も、うちじゃない科も、何を境に決まっているのか、よくわからなくなりますが、そんなぎくしゃくしないで働きたいと思います。

疲れていても、聖人君子のように振る舞うことは訓練でできるようになる、と恩師はよくカンファレンスで言います。ふり、でいいですから。

この訓練にはこのような環境は適しているのかもしれません。まだまだうまくいきませんが。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年05月11日
今年の3月に札幌徳洲会の初期研修が終わって4月からは3年目のDrです。
北海道を離れて、今は長野県内の病院で、地域医療部の後期研修が始まりました。

病院の規模が大きく全体像はまだ掴めません。
自分の属する地域医療部は、少なくとも総合診療科と地域ケア科に分かれています。
3年間のプログラムで、これから1年は、その総合診療科の医師として800床程度の本院で総合外来や病棟業務をします。余裕が出てきたら訪問診療にも出てゆきたいですが、今のところその余裕はなさそうです。

病棟では、総合外来で入院となった患者さんや地域ケア科(在宅部門で訪問診療をやっている)で入院が必要な患者さんの担当がメインです。不明熱などは若いのですが、病棟患者のほとんどは80歳越えの人生のベテランで90歳代は普通です。受け持ちの担当患者の最高齢は100歳のおばあちゃんです。大変耳が遠いですが、認知症もなく、歩けますし、回診に行くとユーモアがあふれていてこちらが元気をいただいています。高齢化社会が確実に進んでいることを実感できます。ここは時代の最先端です。

ここも例に漏れず、特老は一杯で数十人まちです。100歳のおばあちゃんは、今回の入院前は介護保険を使って自宅で過ごしていましたが、老老介護の問題があり、退院後は老健に移り、特老待ちとなりました。自分の中の驚きですが、90歳代のおじいちゃん・おばあちゃんでも、施設ではなく居宅サービスで自宅に戻っていく方が多いです。それは、まだ、わかりませんが北海道とは違う地域性があるようです。
投稿者
当院初期研修終了生からの手紙
2010年04月07日
今年は福井で小児科医として働きます。
地域医療を担う能力を得るには専門医の近くで学んだ方がいいですしね。
同じ目線で話すなんて目標はありませんが。
地域の中小規模病院で救急をやるには何が必要なのかを考えていきます。

結局のところは「協調性」ですね、全職員の。そして長くかかることもわかりました。
切羽詰ったところですぐに感情的になる指導医はよくない。余裕が無いのがわかってしまいますし、不満も周囲の雰囲気を悪くします。

どうですか、そちらは。

理念は大事ですが、それをかざさないで周囲を惹きつけることができるようになると、よく回るのが面白いところ。人間力?

救急は浅く広く。専門性を持つのはときに危険なことがあることを、専門医には一生わかってもらえないのがつらいところ。

そちらで働いていた先生に以前、「どんなに救急を頑張っても自己満足でだれも評価なんかしてくれない、そのために専門医になり学問を追求して学会発表するんだ、そうして周りから認めてもらえる」と言われたことはショックでした。10年くらいそちらでもみてきたひとに、地域医療の大切さって?あまり周囲に認められたい感情のない自分には目から鱗の瞬間でしたが、たしかに一理あり?
冷静に受け止めつつも、どちらが自分の中で大事か考えていきたいと思います。
答えはわかっていますが。

ずっと救急をやっていると、あきて疲れてくるので、すこし気分転換も必要なこの頃。
自分の生活との両立を。

新しいロールモデルから学ぶことは多くあります。
地域の病院にも立派な人はたくさんいます。

自分の子供をみながら学ぶことが出来るのは幸せです。
疲れて帰ってもがんばれます。
以前、岡山で指導医によくいわれました。
頑張った瞬間を大事にしていきたいと思います。

福井は都会と違い、娯楽はほとんどというほどありませんが、学ぶにはいい環境です。
頑張りすぎないのも大事かと。

お体に気をつけて。



kei
投稿者
心得
2009年11月10日
 医学部を卒業して四半世紀が過ぎました.年月とともに経験や知識が増えていくのは当然ですが,その反面急速に身体が衰えていき,結局,全体としては良くも悪くもないと言う,まるで エネルギー保存の法則のような現実に多少悲しくなります.
医業は系統だった知識や技術が必要ですが,その修得には多くの場合,伝統芸能の踏襲のような側面があります.昨今の充実した研修医制度や先輩からの指導も大切ではありますが,結局は先達の振る舞いを目の前でみて身体で覚え,自分からそのコツを気づき覚えていくという要素が大半を占めるはずです.教えられた知識は所詮対岸の火事で,自分でその本質に気づいてはじめて自分自身のものになっていきます.
今も昔も医者の数が少なく,また本来の医業以外の雑務の多さから,きちんと系統だって先輩から指導を受けたことはほとんどありません.しかしながら前述の理由でそれが必ずしも悪いことでもなければ,改善すべきだとも思いません.
最初の数年で,今でも自分のやり方として先輩から盗むまたは受け継いだことは2つあります.
1つ目は,人間としての心得で,患者さんに頭を下げることです.新しく赴任した親分(主任教授)は医局員にはきびしかったのですが,患者さんにはよく礼をしていました.回診では,「来週手術をさせいてもらいます」と言っては頭を下げ,「退院します」といわれて,「それはよかったでんな」と言って頭を下げます.これは実はなかなかできないことで,実際それまで,このように何かある度にきちんと頭をさげている医者をみたことがありませんでした.
2つ目は,臨床の心得です.「臨床医学は患者さんをできる限りよく観察してはじめて色々なことがわかってくる」という基本的なことで,「患者さんが教えてくれるんだよ」と口癖のように毎日聴かされました.実際その通りで,観察しなければいくら教科書からの知識があっても何の役にも立ちません.ですから,昨今のはやりのキーボードを使った電子カルテには全く共感できません.壊れたビデオの修理の際に,「ぴっ」と型番をスキャンして,「あっ,この部品はまだありますので,明日届いて,あさってには交換できます」というのは好きです.
投稿者脳神経外科部長  黒川 泰任
NO TITLE
2009年09月28日
私は卒業後、出身大学である旭川医科大学の放射線科に入局しました。出血や腫瘍に対して止血や治療を局所的に行うことができるIVR(Interventional Radiology)に興味があったことが、放射線科入局を決めた主な理由でした。
旭川医大の放射線科は、CT・MRIの画像診断およびIVRを行う診断部門、核医学部門、放射線治療部門の3部門に分かれており、1年目はそれぞれの部門で研修をしました。2年目は、IVRの適応となる症例が多い救急部での研修を希望し、関東の私立大学附属病院の麻酔科、救急部、分院の放射線科(IVRの症例が多かった)で研修をさせていただきました。
他科・他施設ということもあり、2年目の救急部、放射線科での研修が特に印象的でした。救急部にはいろいろな科のスタッフが集まっており、画像診断とIVRを主に行う放射線科医の役割・立場を客観的にみることができました。画像診断を通していろいろな科の診療に広く関わり、かつIVRで治療にも関わっていた姿が、自分には非常に魅力的に映り、その後の修練のモチベーションとなっています。
働き始めてもうすぐ10年。もう少し貢献度をあげるべくがんばらないと。
投稿者放射線科 佐久間 明洋
NO TITLE
2009年07月14日
14年程前の話。東京の私立医大6年だった私は、東京に残るか、札幌に戻るかで悩んでました。父は札幌で内科医院を開業しており、医院を継いでくれるものと思っていたようです。当時の私も深く考えず、この先内科医になり、いずれ父の後を継ぐのであろうと、漠然と思っていました。
現在、私は、内科医ではなく麻酔科医をしています。何故、内科を選ばなかったのか?
卒後札幌徳洲会病院に就職し、研修医生活が始まりました。外科、整形外科、内科、小児科、産婦人科を研修し、当直ではあらゆるcommon diseaseの症例を診ました。いろんな患者さんのキャラクターを経験しすぎたせいでしょうか、これら当直時の経験が、内科へ嫌気を生んでしまい、内科を専攻するのをやめました(父よ、御免)。
では、研修医を終えたとき、どの科を選ぼうか。東京の医大卒の私は北大や札医大の医局に入ることに消極的で、この徳洲会病院で医師を続けることを考えました。いちばん自分に向いていると思われ、好きだったのが外科でした。後期研修で外科を選択した後に、麻酔科が開設され、後期外科研修の途中で麻酔科研修を2ヶ月しました。一言でいうと非常に楽しかったです。何を楽しいと思ったのか。自分の行った行為がすぐ結果として現れてくる。緊急手術で呼び出されることは多々あるけれども、仕事のonとoffが明快である。手術の侵襲を患者さんに感じさせず、そして、痛みをなるべく感じさせずに手術室から退室していただく。Cureではなく、careというスタンスが自分には合っていると思いました。麻酔科研修を終えて、本来の外科研修に戻り、助手として手術に立ち会っていた時も、麻酔科の先生が何をしているか、いま、何の薬を入れたのか、気になって気になって仕方がありませんでした。その1ヵ月後、当時の外科の上司に麻酔科に転向したい旨を告げ、麻酔科医としての医師人生が始まりました。
麻酔科を専攻し、約11年が経過しました。その間、麻酔科医をやめたいと思うことも、他の科に転向したいと思うこともありませんでした。自分に向いている科を専攻することができ、ハードな研修医生活も無駄ではなかったと思っています。
投稿者麻酔科医長 出内 なつ子
NO TITLE
2009年06月30日
私が旭川医大を卒業し、旭川医大放射線科に入局したのは1995年です。放射線診断学という学問と旭川医大放射線科の医局、両方に魅力、未来を感じて、この道を選択しました。とはいえ、旭川医大放射線科は他科に比べて小さな講座で、医局員も非常に少なく、いわゆる関連病院もなく、自分自身の将来にまったく不安がなかったわけではありません。どのようにして放射線科医としてスキルアップしキャリアを積んでいくのか、どうすれば他の診療科の先生あるいは一般病院から必要とされる放射線科医になれるのか、そんなことばかり考えていたように思います。当時の放射線科の研修システムは、最初の1年間で、診断部門6ヶ月、核医学部門3ヶ月、放射線治療部門3ヶ月、2年目は自分の専門分野の研修とおおまかなスケジュールはあったものの、とくに研修目標、到達目標などは設定されず、その分、興味をもったことや将来必要になるであろう知識や技術などをある程度自分のペースで自由に学べる環境でした。今振り返って思うと、ノルマ達成やレポート提出が苦手な私にとってこのスタイルの研修は自分に合っていたように思われます。そんな中で、教授・医局長にお願いして2年目の研修のうち3ヶ月間は、麻酔科で研修させていただきました。いわゆる呼吸・循環管理の初歩を学ぶのが目的でしたが、それだけではなく、手術場に入って、自分たちが診断してきたCTやMRIなどの所見が実際にはどのような肉眼形態をしているのかを目の当たりにすることかでき、その後の画像診断・読影に際してもイメージが付けやすくなり、非常に貴重な経験になりました。また、まったく異なる診療科での研修は、その科の知識が得られただけでなく、自分が所属している放射線科あるいは放射線診断学を外部から見直すいい機会でもありました。
それから十数年が経過して、いつのまにか自分が指導する立場になり、そのなかでレジデントの先生から画像に関する質問を受けることがあります。一枚の画像を穴があくほどながめて、一つ一つの所見から一生懸命答えを導き出そうとするその姿は、日々の日常業務に追われて、つい忘れがちな画像診断の基本中の基本を思い起こさせてくれます。何年経験を積んで知識が増えても基本だけは忘れないよう、レジデントの先生をみては、そう思います。
投稿者放射線科部長 片田 竜司
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2009年06月16日
現在のような研修医制度がなく、同期の大多数が大学医局に所属していく中、耳鼻咽喉科を志望していた私は母校の医局に入局しました。医者の象徴的な小道具の1つ?である額帯鏡を駆使、専門医でしか所見をとれない場所を扱う特殊性、内科的な治療から一般的な外科的治療まで、さらには顕微鏡を使う細かいものから、骨を削るような手術まで行う多様性、1人の患者に最初から最後まで関わることが多いこと、などに惹かれていたからです。同世代の先生と同様、ほぼ毎日遅くまで、雑用を含めた診療業務に追われる日々でした。そんな日々の中、先輩から診療や手術のコツを教わり成長していくのが当たり前の世界でしたし、実際に額帯鏡を用いて見たいところに光を入れ、そこから所見をとるのは大変なことでしたので、不満はほとんどなく、早く世の役に立ちたいという思いの方が強かった記憶があります。最近は、学生や研修医の先生に、過保護とも思えるくらいに手厚い教育プログラム、教育スキルが用意され、随分時代が変わったなぁと違和感を憶えることも多々あります。研修環境が整うのは悪いことではないと思いますが、時代、環境、分野を超越して大切なものは、やはり本人のモチベーションと自主性、努力に尽きると思います。現在の研修医制度の是非はともかく、札幌徳洲会病院研修医の先生は、モチベーションが高く、優秀で素晴らしいと感じています。多くの症例をある程度責任感を持って経験する中で、力がついていくのでしょう。多忙な臨床の中、なかなか難しいかと思いますが、自分の経験した貴重な症例を何らかの形で残し、評価を仰ぐ癖をつけるといいかもしれません。何事も最初が肝心ですので…。最後に、もし万が一、耳鼻咽喉科に密かなる興味を持っている方がいましたら相談にのります。
投稿者耳鼻咽喉科部長 安部 裕介
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2009年06月10日
私が研修医の頃に、鏡視下手術が一般病院でも行われるようになってきた。 当時は、まだ鏡視下手術に対するいわゆる教科書はあまりなく、情報や文献 集めに苦労した覚えがある。 また当時のスタッフは、厳しく教科書や文献を読んだ知識をもっていないと 質問にも答えてくれない。「教科書に載っているから・・・」が答えであり 自分で探すしかない。 情報の少ない鏡視下手術の事についてでさえこうなのだから、一般的手術や 術後管理等については、当然のこどく答えてもらえなかった。 しかしながら、この繰り返しにより除々にではあるが、スタッフのカンファ レンスの内容が理解でき、参加できるようになったので、とてもよい経験で あったと思っている。
では、現在自分がスタッフの立場でどうかというと、どうも簡単に質問に答 えすぎている(私の思う答えであり、医学的答えではないが・・・)のでは と思ってしまう。 教えることも大切だが、独自で考えてもらうことも必要な事だと、この文章 を書きながら反省した次第である。
投稿者整形外科医長 大西 勉
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2009年05月26日
平成2年に旭川医大を卒業した私は、出身大学の皮膚科医局に入局し ました。同期(12期)の入局者は他に3名いて、何れも道外 出身者ですが、皆道内各地で診療に従事し地域医療に貢献しています。 当時の医局の長である飯塚教授は、そろそろ還暦を迎える年頃ですが、 今もお元気で医局員を率い、研究と教育に励んでおられます。教授は北 大出身ですが、卒後9年で旭川医大皮膚科の講師の任に着き、その4年 後には教授になったという、大変優秀な研究者であり教育者、そしてあ とからつくづく思い知らされた事ですが、大変な人格者でした。私の一 番の恩師であり、今もこの地で勤務医を続けていられるのも教授や教室 の庇護があってこそです。

皮膚科学教室の研修プログラムは当時も今もそう大きく変わっていな い事から、非常に良く考えられたものだったと思います。最も特徴的だ と思うのは1年目から皮膚の病理と臨床をできる限りセットで教え込ま れる事です。皮膚の病理組織像と臨床像はほぼ1対1といっていい相関 関係にあり、病理を学ぶ事は臨床診断能力の向上に大いに役立ちます。 新入医局員には教授から皮膚病理組織学の名著、Walter Frederick Lever の Histopathology of the skin が入局祝いとしてプレゼ ントされます。当時第7版が出たばかりのその教科書は全940 ページと大変なボリュームでしたが、新入局者はそれを1年かけて通読 する事になります。毎週開かれる病理組織カンファレンスがその教科書 の各章20~40ページ分から出題されるからです。

病理組織カンファレンスは近着スライドカンファレンス(後 述)と並び研修プログラムの根幹を成すもので、医局員全員が参 加します。出題されるのは10枚弱の病理組織標本(プレパ ラート)で、診断など一切の臨床情報は(出題者を除 き)全ての医局員(教授や講師陣を含む)には伏せら
れています。教室員たちは各自それらの病理組織診断をつけるべく所見 をとるわけですが、特に1年目の研修医にとってはそれは大変難しい事 です。教育目的なので疾患ごとにその特徴を良く備えたなるべく典型的 な標本が選ばれているとはいえ、まだそれほど多くの標本を見慣れてい ない者の目には、そこに何が見えているのかさえ分からない事も多く、 ましてやどこが異常なのか正常なのかが分かりません。標本ごとに染色 の度合いや、切片の厚さなど条件も異なり、横並びにして比較する事も できません。唯一頼りにできるのは、先輩医師の助言ではなく、教授に プレゼントされた前述の教科書ですが、英文のため先ずその読解に多く の労力が割かれます。それに要する時間は外来と病棟での研修を併せた 時間に匹敵し、遊ぶ時間は殆どなくなり、自宅には睡眠と着替えのため だけに帰るだけになります。で、その成果を毎週全医局員の前で発表す るわけですが、物足りないと教授から質問攻めにされたり、そうやって 1年かけて皮膚病理組織学を一通り学ぶわけです。

近着スライドカンファレンスは、大学のみならず関連病院のベッドサ イドにて撮影された病変部の写真を持ち寄りスライドにしたものを映写 して討論し、個々人の経験を皆で共有しようとするものです。ここでも 1年目の研修医から順に所見を述べ臨床診断を挙げていくのですが、こ こでは研修医のみならず時には講師陣にまで教授から意見を求められる 事もあり、上級医にとっても気が抜けない、研修医にとってはさすが上 級医といったところを垣間見れ大変勉強になるカンファレンスでした。

もちろんこうしたカンファレンス以外にも外来で病棟で指導医から多 くの事を学び、半年後には名寄、士別、深川、富良野といった地域の基 幹病院への日帰り出張をこなせるレベルにまで育て上げられます。現在 は固定の常勤医のいるそれらの病院も、当時は常勤医不在のところも多 く、一人で外来をこなさなくてはなりませんが、ベテランの看護師さん に助けられ百名前後の患者を診る、というより捌くことを経験します。 さらに1年後には稚内や北見、旭川厚生といった常勤の指導医のいる臨 床研修指定病院に半~1年勤務し、本当の患者との付き合い方を学んで いきます。研修は一生涯続くものではありますが、卒後6年を目処に皮 膚科専門医を取得する事をの一つの到達点としています。

もし皮膚科の研修に興味を持ってここまで読んで下さった研修医や学 生の方がいらっしゃいましたら、参考にして頂ければ幸いです。事前に お申し込みさえ頂ければ当院の皮膚科外来は殆どいつでも見学可能です し、ここでは十分にお伝え出来ない皮膚科学や皮膚科診療の面白さをお 話ししたいと思います。但し残念ながら当院では経験出来る症例が質・ 量ともに圧倒的に少ないため、皮膚科をちゃんと診れる医師を志す方の 初期研修には私の母校をお奨め致します。
投稿者皮膚科部長 浅賀 浩孝
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2009年05月19日
私は平成2年、旭川医科大学を卒業し同大学小児科医局に入局しました。地元である母校に残ることは以前から決めていました。臓器別の専門科はまだ選べないなあ……と思い、自分が女性であることや適正を考慮しつつ、「子供をみる」科を選び、その中で専門分野を決めようと思いました。1年目は大学病院で血液、循環器、神経、新生児、感染症、内分泌など各診療グループで初期研修を行った後、2年目からは地方病院の医師として北海道各地の病院を転々としながら様々な患者さんに出会い経験を積ませてもらいました。当初、携帯電話は存在せず、自宅にいてもコードの長~い有線電話をトイレや浴室の前に持参していつ呼ばれても対応できるように待機するのが日常でした。外出先でもポケットベルの電波が届かない場所では「今は◯◯にいますので、連絡はこの番号にお願いします。」といった状況でした。大先輩と2人体制勤務の時代は、先輩の当直日と1週間の夏休み以外はすべて自分がファーストコールでしたが、当時はそれが当然でしたし、誇りでもありました。今後消滅すると言う人もいる「医局」という制度も、自分の医師としての成長にとってはなくてはならないものだったと感謝しています。時が流れ、社会も医学教育もかわり、効率よくスマートにことが進むことが望まれる時代。「昔は~」と言っているようでは年寄り扱いされるだけかもしれません。若い先生方のがんばりを、期待をこめて見守っていきたいと思います。
投稿者小児科医長 大島 美保
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2009年04月13日
1989年(平成元年)に北海道大学医学部を卒業し、北大麻酔科に入局しました。Neuroscience に興味があったので、麻酔科以外では、脳神経外科や精神科も卒後の志望先に考えましたが、On とOff が比較的はっきりしている麻酔科を選択しました。
1年目は北大病院で研修をしました。当時は手術件数が今よりも少なく、また、入局者も多く、比較的平穏な日々でした。週休2日で、当直や待機はなく、週末は飲みに行ったり、遊びに行ったり楽しく研修させていただきました。
2年目は市立札幌病院で研修しました。麻酔科医5人の中で一番下だったのでいろいろやらせてもらい、また症例が豊富でとてもためになりました。麻酔科待機はしましたが、レジデントは当直があたりませんでした。当直は、ときどき老人病院のアルバイトをしたくらいでした。当時の病院はSTVの隣にあり、街の中で、外食や買い物には不自由しませんでした。他科のレジデントもたくさんいて、よく学びよく遊び、楽しい研修医時代でした。
当院に赴任したとき、現在の臨床研修制度の先駆け的なスパーローテートの研修システムおよびよく働くレジデントに感心しました。
投稿者麻酔科部長 奥山 淳
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2009年04月07日
自分がここ札幌徳洲会病院を最初に訪れたのは、大学5年生の実習でした。当時、現在の森利光院長が研修医として急性虫垂炎の手術を執刀されていたのを鮮明に記憶しています。学生時代医療研究会なるサークルに所属し、いろいろな医療機関の情報を学生なりに把握しており、今のような卒後臨床研修システムはこと大学においてはなきに等しいと感じていました。当時、同期の約半数は卒業大学に残り、大学の医局に所属して若いうちは地方の病院を1~2年ごとに回って歩くというのが進路の大方でした。

 昭和50年代後半はいわゆる救急医療の「たらい回し」が社会問題としてクローズアップされていた時代で、365日24時間オープンを理念に掲げた徳洲会の活動は良くも悪くもマスコミをしばしば賑わせていました。その中でも札幌病院はできたばかりのピカピカの病院で、そこに勤務する医師もバリバリの若手(これは錯覚だったのかもしれません)ばかりで、大学6年目に二度目の実習をこの病院で行ったときにすでに自分の進路は決定していました。当時にしては珍しいローテート型の研修が可能である札幌徳洲会に行くしかないと決めつけていたのです。

 とは言っても、今にしてみれば、当時の診療科は内科外科しかなく、卒後最初の1年目に内科半年、外科半年。2年目には内科か外科か好きな方を選択するというアバウトなものでした。自分当初の予定通り最終的に外科に籍を置いたわけですが、当時は泌尿器科・整形外科の非常勤の医師が定期的に来ており、彼らの行う手術の助手に入るのも日常業務の一つとなっていました。やがて「どうだ、(執刀を)やってみないか?」といってくれる先生もおり、一般外科の手術はもちろん、これら他科の領域まで踏み込んだ研修ができたと思っています。その後小児科、産婦人科、整形外科が常勤医となるまでは少ない人数でもっぱら内科医。外科医のみからなる医局でしたが、今の厚生労働省が定めるスーパーローテート研修に近い格好の研修を可能にしていたのは、当時の北海道において、札幌徳洲会病院以外にはごく少数の施設に限られていたと思います。。

 時は流れ、20年以上が経ち、自分も老眼鏡をかけるようになりました。連綿として受け継がれた徳洲会の研修医たちは数多く巣立っていき、札幌徳洲会病院でも自分の後輩が執刀医として外科の主軸を担っています。今は外科医としての仕事はほとんどせず、救急外来専属として働いています。外科医としては一抹の寂しさは禁じざるを得ませんが、救急医は病院の入り口の顔です。困った患者様の最後の砦として、近年再び問題化している「救急患者のたらい回し」をしない地域医療の一翼を担う所存でこれからも精進したいと思います。そして来るべき病院移転新築をにらみ、救急部専任スタッフを増やし、独立した北米式ERシステムを構築できればと夢見ています。
投稿者救急診療部長 清水 徹郎
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2009年03月31日
私は、昭和59年、旭川医科大学を卒業しました。6期生です。卒業を前にして、実家のある東京へ帰るか、北海道に残るかを少し迷いましたが、部活動の先輩の勧めで、消化器外科医を志して、旭川医大第2外科に入局しました。
同期は私を含め8名いました。当時、第2外科の研修医は、はじめの1年間のうち6ヶ月を旭川医大で、6ヶ月を北海道大学の麻酔科で研修することになっており、私は前半を外科で、後半を麻酔科で研修しました。旭川医大付属病院での病棟業務は、まずは朝の点滴係から始まり、手術、術後管理、資料や伝票の整理、それに加えて学会発表の準備と、毎日があっという間に過ぎていました。その合間を縫って、同期の他の3人とは飲みに、行楽に、多忙な毎日でした(当時、旭川の居酒屋「赤ちょうちん」は朝5時まで営業)。北大麻酔科時代は、病院とアパートの往復以外ほとんど外出をしない、冬の半年を過ごしました。6ヶ月で全身麻酔220件ほどを経験させていただきました。
2年目は、旭川厚生病院外科で研修しました。当初は研修医が私一人で、基本的にすべての手術に第2または第3助手として入り、標本整理と術後管理をすることになっていました。だいたい仕事が終わるのが夜10時か11時で、準夜帯の勤務の看護師さんが仕事を終えるのを午前2時すぎまで待って、食事に行き、4時頃帰る、という日々でした。
初期研修は通常卒後2年間だったのですが、私は3年目に、国立札幌病院外科(現北海道がんセンター病院、当時はまだ乳腺内分泌外科は独立していませんでした)で、レジデントとして研修することになりました。当時在職していたレジデントは3名で、年間約1000件の消化器および乳腺甲状腺手術の助手、術後管理を行い、1年間で全国学会1回、厚生省班研究の宿題報告1回、地方会2回の学会発表をさせていただきました。1年間で2日以上続けて休んだのは、10月に東京に旅行した3日間だけで、旅行中、病院への連絡に5000円のテレフォンカード(懐かしい)を使いきりました。まだ、メッセージを入れることができないポケベルの時代でした。
その後旭川医大に戻り4年目。5年目は、札幌徳洲会病院で、外傷、救急疾患を含め、一般外科の経験をさせていただきました。現救急部長の清水先生が当時3年目レジデントだった時代です。研修医時代の3年間、外科研修医、レジデントとして、所属する旭川医大第2外科の先輩だけでなく、北大第1外科、麻酔科の先生方、他科の先生方、コメディカルの方々にも並々ならぬご指導をいただきました。当時は、手術や術後管理については現在のようなレジデント向けの指導書はなく、ビデオもなく、レクチャーもありませんでした。見て覚える、盗んで覚えるが当たり前で、まさに徒弟制度の厳しい指導だったと記憶しています。
相当につらい思いをしなければならない時代を過ごしましたので、自分が教える立場になったら、できるだけ研修医には優しくありたい、と思っています。ただし、外科志望の研修医、レジデントには「愛のある徒弟制度」で接することにしています。
投稿者外科部長 小谷 裕美
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2009年03月24日
私も卒業後はそのまま出身大学の呼吸器科(もとを糾せば結核科)に所属したため、所謂卒後臨床研修なるものは受けておりません。
しかしながら、当時の科長(教授)はナショナル・センター出身と言えども、大学医局に所属したことがない方であり、初期研修の大切さはある程度認識されていたようです。おかげさまで、縦割りの大学組織内で限界はありましたが、一年目の時は、心臓血管外科で朝早くから夜遅くまで汗を流したり(頭はあまり使わない)、あるいは健診センターで上部消化管の二重造影(内視鏡ではない)にのめり込んだり、あるいは病院病理部で手術材料の切り出し・鏡検・報告書作成に徹夜したりといろいろ経験させていただきました。そして、二年目の地方病院への長期出張の直前、短い期間ではありましたが、築地の国立がんセンターに見学に行くことができたことは大きなインパクトでした。即ち、それまではレントゲン写真やCTによる肺癌の診断に命をかけている教室(医局)に在籍していたのですが、東京に行ってみるとそんなことより肺癌治療、それも手術などではなく当時はそれほど期待の持てなかった抗癌剤による化学療法を極めて精力的に行っている方々に遭遇し、大きなカルチャー・ショックを受けた次第です。そしてその後、がんセンター関連の病院で約二年間勤務し、北海道に戻って来ました。当徳洲会グループも、今までは循環器救急などにひたすら血道を上げていましたが、国民の三人に一人が癌で亡くなる現状に鑑み、数年前よりオンコロジー(臨床腫瘍学)に(も)注力する事態となりました。今となってはその頃の「体験」が少なからず役に立っており、当時のボスに感謝している今日この頃です。
投稿者呼吸器科部長 本田 亮一
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2009年03月10日
私は、1977年、札幌医大を卒業し、研修は、札幌医大の第三内科を選びました。当初、内科の様々な科を研修するつもりでしたが、そのまま、第三内科に入局しました。したがって消化器、循環器の研修はできませんでした。当時、医局内の先生方も少なく、まともな研修は、受けられませんでした。三内は、他の科と違い牧歌的で、のんびりと過ごしました。呼吸器領域の専門的な手技は、1年ほどで習得しましたが、胃カメラその他腹部エコーらの手技は、独力で、地方で覚えました。したがって、胃カメラは、現在も続けておりますが、難しい症例は、専門の消化器の先生に依頼しています。
1987年に札幌徳洲会病院に入職しました。当時は、スタッフも7名ほどしかいず、さまざまな内科の患者さんを受け持たなければならず、当院で改めて、再研修したと思っています。
2004年4月から新臨牀研修制度が、始まり当院にも多数の研修医が、入職しましたが、相当きついようですが、症例数も多く、将来的には、決して後悔はしないと思います。ことわざに、鉄は熱いうちに鍛えよとあります。昨今は、忙しい研修病院は、敬遠されがちですが、当院の研修も選択肢の一つに入れてもよいのではないかと思います。
投稿者診療部長 伊藤 喜代春
我が懐かしの新人医師時代
2009年03月03日
ああーあー津軽海峡冬景色…石川さゆりのヒット曲が街中にながれていた1977年。季節こそ厳冬ではなく初夏を迎えた7月1日、私は国家試験合格後の3ヶ月間の短い大学小児科医局での研修生活を終え、青函連絡船上の人となっていた。
青森市にある県立中央病院小児科勤務となるが、生まれてはじめて親元を離れての道外での生活は、期待よりも不安のほうがはるかに大きかった。当時の県病小児科は総勢8名、大学のジッツ病院中最大であり、患者数も多く、症例も豊富で、多くの小児科医の憧れの存在であった。新人医師はまず外来担当医が入院させた患者の主治医となり、上級医の指導のもとで検査、治療に従事する事になった。感染症、白血病などの悪性疾患、奇形などを有する先天異常症や遺伝病など1日2-3例の入院患者が割り当てられ、独身寮に帰るのは深夜になる日が続いた。また同院は県の中核となる未熟児センターも併設していたので、県内の広い地域より24時間を通して救急搬送される新生児を輪番制で担当した。
独身寮には15名ほど居住していた。現代のようにポケットベルや携帯電話は普及しておらず、深夜に病院から寮に呼び出しの電話が鳴ると、管理人夫婦が受け取り、私たちの部屋のほうに歩いてくる音が聞こえてきた。私でなければよいのだがと、まるでお呼びが掛かる死刑執行前の囚人のような気分になった。運悪く私であれば、病院までの300mほどを駆けて行き、しばしばそのまま病院に寝泊りしたものであった。
青森県立中央病院医誌(青県病誌)が年4回発刊されるので、論文は年4編の作成がノルマ。その他の医学雑誌にも投稿すると年6編ほどになった。参考文献を集めるために、自家用車で弘前大学医学部図書館にもよく行った。症例報告、特定の疾患についての数年間のまとめなど、同院は症例数、疾患の多様性に富んでいたため、ネタを探すのには苦労しなかった。
ある日腎臓病が専門の部長が、私を生後2ヶ月の先天性ネフローゼ症候群の女児の主治医とした。虚弱児であり、多量の蛋白尿を認め、浮腫を伴っていたため、アルブミン製剤や利尿剤による治療を中心に行なった。しかし病状は改善せず、1年後に感染症で亡くなった。現在であれば腎移植などにて完治も期待できるのだが、当時は難病であった。本症例のプロテアーゼインヒビターを中心とした凝固線溶能や羊水診断などを中心とした論文も作成した。1週間後には今度はネフローゼ症候群を呈した急速進行性糸球体腎炎による急性腎不全の幼児を当てられた。血清尿素窒素100mg/dL以上、クレアチニンも10mg/dL以上で無尿。利尿剤などの効果なく、腹膜透析を行なう事にした。部長の指導の下、恐る恐る腹膜チユーブを挿入し、当時のものものしい腹膜透析装置を操作し、寝ずの番を務めた。しかしこの子も肺炎、肺水腫で亡くなった。
私は今までネフローゼ症候群で命を落とすとは夢にも思っていなかったが、この2例の悲惨な現実を直視して、腎臓病の奥の深さ、治療の難しさを深く認識した。腎臓病に興味を抱き、その後も多くの患者を担当させてもらった。私が現在小児科を離れて腎臓内科専門医として従事する最初の契機となった。
仕事はハードであったが、当時の県病小児科は20歳代の独身者が多く居たので、夜9時過ぎより飲みに行くことがあった。週末にはナースたちと供に津軽、下北半島、十和田湖、春のお花見の頃は弘前公園への夜のドライブ。そして何よりも8月のあの津軽っ子を熱狂させるねぶた祭り。ラッセラーの掛け声高らかにハネトとして街中を踊りまくった。祭りを経験すると誰もが青森が大好きになった。翌日は足が痛くなって階段も上れない程であったが、心療は真面目にやった。仕事にレジャーにメリハリを付けた中身の濃い生活を送った。あっという間の3年3ヶ月であった。1980年9月30日とうとう青森を去る日が来た。連絡船の桟橋でナースより大きなねぶた絵をいただいた。ごらんあれが竜飛岬北の端と…..船窓よりの風景を眺めながら、青森での充実した日々に感謝した次第である。
投稿者透析・腎臓内科部長 横山 隆
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2009年02月24日
 私は1999年に北海道大学を卒業し、札幌徳洲会病院に入職いたしました。当時は大学神話に変化が出始めたころで、大学以外で研修をする人もだんだん増えている時期でしたが、臨床研修が義務化になっておらず、大学の医局に入局するのがまだまだ主流でした。しかしその流れには乗らず、あえて札幌徳洲会病院を選びました。
私が札幌徳洲会病院を選んだ大きな理由は2つです。
1つめは、救急をたくさん受けていて、それを研修医が担当するというシステムがよかったからということです。徳洲会病院の理念に患者を断らないという項目があります。どんな患者でも、どんなに病院が忙しくても依頼があれば受け入れるという考えかたにひかれました。私が医師を目指した根底には、目の前で苦しんでいる人を助けたいという気持ちがありましたので、その目的に当てはまる病院だと考えました。
2つめは、各科のローテーション研修と離島研修です。徳洲会病院は僕が入職するずっと前からこの2つを基本とする研修システムが確立されていました。今の臨床研修システムの先駆けになると思います。私は卒業するまで自分の選択する科を決められなかったため、適した科を選ぶのに実際に回ってみるという方法が魅力的に感じました。また、離島研修は北海道で生まれ育った自分にとって南の島で働くというのは未知の領域でありながらもきっと楽しい研修に違いないと思っていたので、まさに願ったりかなったりという感じでした。
このように書くと徳洲会病院にしか興味がないような感じに受け取られるかもしれませんが、徳洲会病院に入ることに対して不安がなかったわけではありません。激務に耐えられるのかどうか、研修が終わって自分が成長できているのかどうか、政治がらみの問題はないのかなどなど・・・。そんな不安を抱えながら札幌徳洲会病院での研修生活が始まりました。
実際研修を始めてみると、想像以上の忙しさで研修が終わるまでもつかどうか少し不安な時もありましたが、先輩に助けられながらも何とかこなすことができました。今振り返ると、この2年間の研修はとても貴重で自分の今の土台をなすものになっていると思います。また、政治に関しての問題は少なくとも自分の研修に悪影響を及ぼすものではありませんでしたし、現在もそれを問題に思うことはありません。
今研修先を考えている方に伝えたいことは、身を粉にして働くことがすべてではないけれどもその研修は必ず糧になるということ、実際に研修をしたドクターに話を聞いてみるのが何よりも参考になるということです。ぜひ、札幌徳洲会病院に足を運んで生きた話を聞いてみてください。
投稿者麻酔科医長 桑原 稔
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2009年02月17日
 私は卒後すぐに札幌徳洲会病院に入職し、2年間にわたり各診療科を数ヶ月ずつ修業いたしました。もう10数年前のことです。現在の卒後臨床研修は厚生労働省により2年間必修化され、私の時と同様に各診療科を数ヶ月ずつ研修するものですが、当時はまだまだ稀で一部の研修病院が行っているだけで、それを希望する医学部卒業生もごくわずかでした。私の同級生の5%位だけだった様に記憶しています。多くの他の同級生は大学の医局に入局し、はじめから専門科に属していました。

 当院での研修を希望した理由は3つあります。
1つめは先に述べましたように各診療科で基礎的なことを修業・勉強できる環境であったことです。研修から数ヶ月たち、1年たち大学に残った同級生たちと比べると、彼らは自分の領域は得意だけれども他の科のことは自分の方が得意だと実感しました。

2つめは救急診療を積極的に行っている病院だったことです。医師になったならば可能な限りの救急初期対応はできるようになりたいと強く思っていました。このような思いは現在の医学生の中にも少なからずあるだろうと思います。当院は札幌市内でも有数の救急車受け入れ病院です。
最近はコンビニ受診がマスコミで取り上げられていますがこれは今に始まったことではないように思います。私が研修医だったころも様々な理由で多くの時間外受診の患者さんが来院されていました。たとえば早朝トイレに目覚め、たまたま髪の毛をさわったら頭に小さなできものがあり、痛くもかゆくもないのですが気になり朝5時に受診した30代の男性。さすがにこのような場合は朝9時からの正規の外来時間を利用してほしいと思います。我々のマンパワーにも限りがあります。できるだけ救急患者を多く受け入れるためです。

3つめは魅力的な先輩医師と出会ったことです。
その先生はあらゆる治療手技をさらりとやってのけ、かつクールで「かっこいい」と思ったものです。ここで研修すればきっと同じようになれるんだという思いで修練に励みました。人との出会いは大切です。もしも読んでいただいている方の中に医学生がいるならば、見学・実習先でそのような医師に出会えるように積極的に医療現場に参加してください。

研修同期の1人は函館の病院でバリバリの整形外科医、もう1人はアメリカで法医学の修行中。元気かな?
投稿者外科医長 城田 誠
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2009年02月10日
昭和62年の春が私の本格的な卒後研修の開始でした。
私の国家試験の合格を首を長くして待っていた当院の医局の各スタッフの先生方には、医局会議の挨拶の際に当時の内科指導医であられた矢崎 一雄先生から「頑丈なので、なたね油のようにしぼれるだけしぼって鍛えてやって下さい。」とのアナウンスがあり、不安と半ば期待の入り混じったやや複雑な気持ちで神妙に聞き入っておりました。
そして、搾れば搾るほどに滲み出るガマの油ならぬ脂汗に近い冷や汗を含めてかなりの油を搾られたと思います。
最初は、一人の患者さんの問診と身体診察に1時間近くもかかり、入院時のカルテを書き終えると大きな達成感はありましたが、帰宅する時間も深夜に及ぶこともしばしばでした。静まり返った夜のサイクリングロードを夜空の星を見上げながら、身体は疲れていてもなんとなく充実した気分で帰宅の途につく足取りは思わずスキップをするかのような軽やかなものであった時もありました。
しかし、そんな生易しいイントロの期間もあっという間に終わり、いきなり大海原に乗り出す船の初年水兵のような気分になったのは、ライラックの花の咲き出す前でした。
「1年目は、延髄から下だけでいい。とにかく、考えるまえに身体を動かせ!」との
言葉に洗脳や除脳されたわけでもないのに、本当に運動神経の反射の訓練をしているかのうような、まさに「からだで覚える救急医療」であったり「からだで覚える臨床医学」の毎日であったように思います。それは、まさに「訓練」という言葉が持つ内容に近いものでした。当時もevidence basedなところは多々あったはずですが、野性的な勘であったり、場数を多く踏む中で捉えた言語化が難しい微妙なエッセンスのようなものも自分だけの貴重なお宝として毎日自然と吸収、蓄積して行ったような印象が残っています。
しかしながら、活字から遠く離れた絶海の孤島で文明の知的遺産の恩恵に浴することも
出来ないようなある種の孤独感を稀に感じる時もあり、たまに本を開くのですがものの3分も待たずに両眼のまぶたはゆっくりと下がって行くのでした。
最初の1年でcover to coverでまともに完読した本と言えば、恥ずかしながら1冊の薄っぺらな麻酔科入門の本と聖路加レジデントマニュアルだけでした。読んだうちにも入らないような状況に自分でも感心するくらい忠実に教えを守ったのだと思いました。
「最初の1年は延髄以下を優先せよ。」との教えを。
若く、血気盛んな多くの指導医の先生方に随分と可愛がられ、油も相当しぼられました。
限られた時間の中で、睡眠や食事を取り、教えられた内容から大きく隔たりが起こらない程度になんとか診療を遂行し、当直明けには朦朧とした頭でそれでも講義を睡眠学習し、立ちながら眠ってのフィルムカンファレンスでは思わずシャーカステンに向かってつんのめってしまって皆のひんしゅくを買い、たまに開いた本を手に居眠りをしていると指導医からは灰皿(当時は医局ではタバコを吸う先生が多くおられ、そこかしこに「灰皿」なる今ではとても懐かしい代物が置いてありました)で後頭部を殴られつつ
「かっこだけじゃダメなんだよ!」と怒鳴られ、延髄から下だけではもうダメなんだと
気付き始めた頃には、可愛い後輩がいる次の春を迎えておりました。
あっと言う間の1年間でしたが、体験を通じて得られる経験知の集積はそれなりのものがあったように思います。
そんな1年をなんとか無事終えて、本当の意味で「勉強」を始めたのは研修医2年目からでした。
教える喜びは、そのまま真に学ぶ喜びに繋がることを知ってからでした。
投稿者総合内科・腎臓科部長・研修管理委員長 小野寺 康博