秋の夜長は
2011年11月14日
今年の秋は週末になると天気が悪く、何にもしないうちに初雪が降りそうです。

医師リレーエッセイを見てるとなんか真面目な話ばかりでここいらで息抜きを

秋といえば、「食欲」の秋、「芸術」の秋、「スポーツ」の秋などいろんな秋がありますが、秋の夜長、「読書」の秋といったものもあります。ゆっくり読めればいいのですが、読んでる途中に携帯がなり、「徳洲会病院、事務の○○です。救急外来の△△先生におつなぎします…」。と病院に呼び出され手術。帰ってまた最初から読みなおしなんてこともままあります。まあ、それはさておき最近読んだもので面白かったものを紹介します。


「宇宙への秘密の鍵」
「宇宙に秘められた謎」
「宇宙の誕生・ビックバンへの旅」
 作 ルーシ&スティーブン ホーキング、訳 さくまゆみこ、岩崎書店

イギリスの宇宙物理学者ホーキング博士が、子供たちに宇宙の仕組みを書いた小説。三部作でここ最近三作目の「宇宙の誕生・ビックバンへの旅」の日本語訳が出版されました。

主人公ジョージはいじめられっ子の小学生。豚のペットを追って隣の家に忍び込んだところ、隣の家にはアニーという女の子とお父さんのエリック、そしてコスモスという偉大なコンピューターがいました。エリックは天文学者で第二の地球を探しています。偉大なコンピューター「コスモス」はドラえもんのどこでもドアのように、宇宙のあらゆるところに通じる窓を作ることができます。ジョージとアニーはどこでもドアを使って宇宙のあちらこちらに旅をしますが、ジョージの学校の先生は実はエリックと昔研究をしていた同僚で、コスモスを奪い取ろうと…

子供向けの本ですが、はっきり言っておもしろい。どんどん読めてしまう。途中途中にコラムがあって、やや高度なことが書いてあったりします。結局3日間で三冊読んだ。

「宇宙への秘密の鍵」は地球生誕の謎、ブラックホールなどについて、「宇宙に秘められた謎」は宇宙探査の歴史や地球外生命体の可能性、「宇宙の誕生・ビックバンへの旅」はビッグバンについて素粒子のはなしまで書かれています。

大人にもおすすめです。


「バーにかかってきた電話」
 作 東直己、ハヤカワ文庫

大泉洋さんが主演の映画「探偵はBARにいる」の原作。札幌を舞台に、特にすすきの中心にした探偵小説です。まだ映画は見ていませんが、大泉さんはどんな演技しているのでしょうか。


「日本人なら知っておきたい日本文学」
 作 蛇蔵 & 海野凪子、幻冬社

「日本人の知らない日本語」というコミックが一時人気になり、ドラマ化もされました。蛇蔵さんの絵で、日本語学校の日本語教師、海野凪子さんが外国人に日本語を教えたときのエピソードなど面白おかしく書かれていました(現在2巻まで)。その二人が日本の古典の作者をコミックで紹介しています。清少納言が思ったことをすぐ口にするOLみたいだったり、紫式部は天才であることを隠したり、菅原孝標女(更級日記)がおたく少女だったり・・・。わらいながら読める古典人物史。


「不思議の大地 なまら北海道」
 作 千石涼太郎、廣済堂出版

今年の初めぐらいに「北海道ルール」という本が出されて、北海道に住んでいるとわからない北海道独特のことを紹介していました。千石涼太郎さんはこの本よりもずーーっと以前から、北海道人の北海道特有の気質、習慣などをエッセイにしています。
千石さんの新刊です。今回は「おばさんは美容室ではなく、理容室に行く」からはじまり、北海道に住んでいるとなるほどと思ったり、えーこれって全国区でなかったのと驚いたり。暇つぶしにはいい本です。


「昭和の名人 完結編 19 五代目三遊亭圓楽」
 小学館、サライ別冊

えーー、これは別に本というよりCDムックなんですが。「落語」です。3年ぐらい前にサライから隔週のムックとして「昭和の名人 決定版」というのがありました。昭和の落語界を背負ってたった名人たちの代表作を聞かせてくれる。三遊亭圓生、古今亭志ん生、志ん朝、柳家小さんなどなど。1年置いて第二弾の登場。毎回買っています。今回は一昨年亡くなった三遊亭圓楽師匠、笑点でおなじみの。「決定版」のときは御存命だったのですがもう登場しました。

昔から落語が好きで、STVラジオで日曜夜8時ごろ「STVホール名人会」をよく聞いてました。じかに寄席に行ったり、ホール名人会とかはいけませんでしたが落語の本など買って読んだり、カセットに撮りだめしたり。ここ最近は病院への行き帰り(車で30分ぐらいかかるので)に聞いています。人情話はなかなか30分では終わらないのですが滑稽話などちょうど移動中にはよくてハンドル握りながら車の中でばか笑い。(周りから見たらきもちわるいだろうなぁ)


さて、今回はこの辺で。おあとがよろしいようで・・・。
投稿者外科部長 紀野 泰久
I still have a dream.
2011年11月07日
人は齢を重ねる毎に夢を失っていく。殊に仕事に於ける夢は、早ければ10代で失う輩も多い。夢多き医師も例外ではない。
多くの日本の医師は大学の舞台を降りると同時に夢を諦める。
私は北海道大学を卒業したが、直ぐに道から逸れてしまい、札幌医大の録を食むことになった。私は公私共々大切なものを失ってしまった。歴史は取り返しがつかない。
しかし、私は医師人生上最も幸運な機会に恵まれた。それは札幌医大救急部での治療経験である。
私の才能は非常に小さなものである。しかしその小さな能力でも、最大限に発揮できる機会があったとすれば、それは三次救急施設における重症四肢外傷の治療現場でしかない。
私は、あの救急部での10年のなかで、「何か」を掴んだと確かに思った。
私の仕事上の世代にトップを走る医師がいた。奈良医大救命救急センターの稲田有史講師である。私は彼には遠く遠く及ばない。
しかし、「彼が掴んだものが何か」を知るところまでには到達できた、と思っている。アマデウスに対するサリエリには成れたかもしれない。
私は凡夫である。しかしだからこそ出来ることがある。
この「深淵な重症四肢外傷治療の真髄」を伝える体制を作り将来に備えること。これは天賦の才能を与えられていない凡夫だからこそ出来ることに違いない。
私には伝えたいことがある、そして伝えることがある。
私は、どうしても「重症四肢外傷治療の歩き方」を伝えなければならない。アマデウスの声を聞く凡夫は、もう現れないかもしれないからだ。
私は、札幌医大から札幌徳洲会に流れ着いた。幾人かの医師には幾許かの想いは伝えられたかもしれない。
しかし未だ私の仕事は終わっていない。私にはもうあまり時間がない。
それゆえに、私は常に仕事の「機会と場所」を求め続けなければならない。
私には未だ夢がある。
今、これからの数年、夢を伝える「窓」を開けようと思う。
そして数年後、満足してその「窓」を閉められることを、私は強く強く願っている。
投稿者副院長 土田 芳彦
医者になって思い知る男と女のちがい
2011年10月31日
医者になって20年がたつ。最初に札幌市内の外科の病院に就職し、多くの手術患者さんの治療を経験させて頂いた。そこでは、食道がんをはじめ、大手術を受ける患者さんが沢山いらっしゃった。大きな手術を受けると、最初の数日間は全身が緊急事態に対する反応を示し、1週間くらいは一刻も目を離せないくらいの不安定な時期が続き、やがて安定期を迎える。そんな患者さんたちのケアを新米の医者達が任され、かたずをのんで見守っているのである。そういう任にある我々が数年たって慣れてくると、口々にこんな事を言うようになる。
「今度の手術、男だっけ?」「そーだよ、しかも元どっかの会社のお偉いさんだったみたいだよ、、」「そうかあ、心配だなあ、やばいね。」

ICU症候群という言葉がある。重症でICU(集中治療室)に居る患者さんが精神的におかしくなり、目がぎらぎらし不眠に陥り、叫んだり暴れたりする精神的な危機的状態をさす。今風に言うと、「壊れてしまった」状態。そして、この症候群は圧倒的に男性に多いのだ。社会的地位が高く、手術前は気丈に振る舞っておられたような方に限ってプッツンと切れてしまう事が目立つ。              
女性はどうかというと、死の淵の逆境にあっても、淡々と落ち着いておられる方が多い。まさに肝っ玉母さん達だ。単に精神的な事だけでは無い。身体も含めて、手術のあとの危険な時期を安定して乗り越える力は圧倒的に女性の方が強いと思う。貧血や、低酸素状態といった危機的状態に対する耐久力が女性の方が強いという事、医者ならば誰でも感じていると思うが如何でしょう。
 
 その後、徳洲会病院で救急医療を担当する事になった私は、ここでもまた男と女の違いを思い知る事になった。
うら若き女性達が睡眠薬とか風邪薬とかをたくさん飲んでは救急車で運ばれて来る。毎晩この光景は繰り返されるほど、ありふれている。 彼女等の多くには、手首に何本もの幾何学模様の筋が刻まれていた。アフリカであれば、おしゃれでこんな模様を体に彫る女性もいるでしょう。でも、彼女達の目的はそれでは無さそうだ。いわゆるリストカットを繰り返した歴史の証明なのだ。
めったに死に至る程の重症に至らず、殆どの女性達は翌日になると、けろっと「ありがとうございました。」と、すっきりした表情で帰って行く。残された我々は、戸惑ってしまう。この幸せな日本、もっとも住みやすい街とされる札幌。人生のなかでも輝かしく、愛らしい女性の時間の真っ只中にある彼女達。何を想い、何を目的に救急車でやってくるのであろうか、、
これが、男性が薬を大量服用してやってきたとなると、ちょっと事情は違う。大抵は、ちゃんと合点がゆく事情があるのだ。リストラされた、うつ病が悪化した、彼女にふられた、等々。薬の飲み方も半端ではなく、死んでしまう確立も高くなる。リストカットの跡がみられる事は滅多になかった。

そして、今、私は北海道徳洲会外傷センターで修業させて頂いている。
その整形外科領域でも、また、男と女の違いを痛感している。
「先生、膝が随分前から痛くて、この1週間は特にひどいんですよ。」年齢はと言えば、子育ては随分前に終わったほどの女性達が大挙して外来に押しかけて来る。 
膝だけでは無い。腰やら肩やら、お尻やら、色んな所が年齢とともに痛くなる事に多分、男も女も無いでしょう。
違うのは、希望される治療の内容だ。女性患者さんの多くは注射の治療を受けることに殆ど抵抗が無く見える。膝やら肩やらの関節にヒアルロン酸なる潤滑油の様な物質を注射する治療がおおはやりである。この注射がまた、ひどく痛いのだ。どろどろしているし、針も太い。流石の女性達もじっと息をこらえて痛みに耐えている。でも、2週間もすると、また、注射にやってくる。「注射の痛みは一瞬で、数日くらいは楽だからねえ。」何と、痛い注射の効能は数日くらいしか無い、というのだ。
一方、男の患者さん達は注射されると余りの痛みに懲りてしまい、たまたまやってきても、「先生、あの注射だけはやらんでくれよ。」ってな具合。

短絡的に、だから男と女は違うでしょ、と言う事は一応科学者の端くれである医者たる者、しません。実際、上に挙げた話には例外も沢山ある。だからと言って、男女差が無くなってきている、なんて事も単純には言えない。科学的に言う為には、統計学的手法にのっとって証明しなければならない。
 私が、幸せだと思う事は、医療者と言う立場、別に科学的な研究をしようが、しまいが、こういう経験を一杯させて頂ける事。それをネタにお酒の席を大いに盛り上げるチャンスがある事、ひいてはそれがまた、男と女の諸問題を考察する貴重な経験を惹起する可能性を高める事である。
投稿者副院長 田邉 康
リレーエッセー
2011年10月24日
この夏はいろいろとやることが多くて8月に墓参りに行く時間が取れず、結局9月の後半になって郷里の十勝に私の弟と一緒に墓参りに行って来た。
母は老齢のせいで身体のあちらこちらが不調で今回は同行出来なかった。
父方の墓参りが済んでから母方の墓参りにレンタカーで向かった。
子供の頃、お盆と正月の年に2回、母の実家に兄弟皆でバスに乗って遊びに行くのがとても楽しみであった。
母の実家は開拓農家で本州から北海道に渡って来た私の曾祖父の代は大変な苦労をしたらしい。冬を生き延びることで精一杯であったようだ。
墓参りが済んだ後に母の実家に立ち寄って母の兄夫婦と従兄弟夫婦に挨拶をした。この日は、翌日に他に立ち寄るべき用件があったので母の実家に40年振りに泊めて頂いた。夜は叔父夫婦と従兄弟夫婦と久しぶりに歓談した。
子供の頃に遊びに行った折にあったいろいろな思い出話やら父方の祖父と母方の祖父の思い出深いエピソードをもとに大いに笑いこけたところもあった。
そして思い出したのは、お盆の時は8月15日の正午になると遊びに行っていた我々兄弟は勿論、従兄弟達、子沢山だった母の兄弟つまり私の叔父、叔母達も皆が一斉に黙祷を捧げた姿だった。
母の長兄はサイパン島で戦死した。次男であるこの度お世話になった叔父は海軍に志願して父島から帰還した。三男の叔父は満州の援農に行き、帰った後も兄達の留守を守って父母を助け実家の農業を一心に手伝っていたが馬橇の調整中に馬に頭部を蹴られたのがきっかけで外傷性の脳脊髄膜炎を患って死去した。既に60歳代で亡くなっている私の父も陸軍の航空隊に所属していて北海道で終戦を迎えた。
お盆に私の父も叔父達も酒を飲みながら戦争中の生々しいエピソードを語り、周囲にいた他の叔父や叔母達も熱心にそれに聴き入っていた姿を思い出した。
軍隊経験の無い年下の叔父、叔母達も母の実家で米軍の戦闘機に機銃掃射を受けた経験があったのだ。
それぞれの立場から戦争の経験と自分の考えを述べていた。母方の祖父はそれらの話をじっと聴いていたが特にコメントも反論もした様子は無かったように記憶している。
そして、この40年の歳月の間に様々なことがあったし、それぞれに年齢を重ねて来た事を実感した。叔父は下肢の血管を患って杖を使いながら歩いている。
そして翌朝に母の実家の周辺を案内してくれた叔父のその歩く姿はゆっくりとした跛行であった。十勝の農業の発展に貢献した一人としての雄々しい老兵とも映る姿をそこに見たように思った。
叔父は私の父とは数ヶ月しか誕生日が違わない。どうしても叔父と父親が重なってしまう。大切にしたい存在だ。
戦後数十年を経過して我が国は今日の繁栄を築き上げた。戦後の大変な時期を経て生き残った日本人がこの国の荒廃した国土から今日の姿にまで多くの力を注いで来た。道路も鉄道もダムも港湾も建築物も、流通も教育も医療も、国民生活を支える重要な基本を営々として築いて来たのだ。
脈々と流れ続ける先祖からの血脈は勿論、我々国民のひとりひとりが親から子へと引き継いできたたいまつは今も途絶えることなく今後へとまた引き継がれて行くものと信じる。
我が国は、世界で超高齢化社会の先頭を走っていると言われる。
外来で診察させて頂く高齢者を見る時、ついその人の誕生日をみて昭和20年8月15日にはこの人はいくつだったのだろうと考えてしまう。
私の父や母、そして叔父、叔母達の姿と重なってしまう。
大変お世話になっている人達を今診させて頂いているという想い。
この方達もかつては皆若々しく活気に満ち満ちて生活し労働していた姿を想像する時、この国を築き上げ、支えて来た数多くの名も無い日本人の先達たちに対する感謝の気持ちがいやが上にも湧いて来る。
人生の大先輩達を感謝の気持ちを込めてそして敬愛の念を持って大切に診させて頂くことが、世界のトップを走る高齢化社会の創造的先駆者としての日本が
益々世界の注目を集める試みを展開して行く上での大きな拠り所となるのではないかと思う。
認知症の問題、医療を支える経済的基盤、家族を支えるべき構成員の生活形態や恕リがり方の変化等、試みを実のあるものとして結実させて行く前に横たわる様々な障壁を如何に問題解決していくのか、我々の前には挑戦に値する未知のフロンティアが拡がっているようだ。そのフロンティアを認識出来た時こそ開拓者魂が発露して行く起点なのかも知れない。
投稿者副院長 小野寺 康博
「2001年の世界」
2011年10月17日
「かがくしゃになる」、というのが、私の小さい頃の夢でした。おそらく、テレビで1963年から1966年に放送されていた、鉄人28号の敷島博士や、鉄腕アトムのお茶の水博士(なぜか、アトムを作った天満博士よりお茶の水博士のほうが好きでした)に影響されてのことと思います。リモコンで動く鉄人は、太平洋戦争末期に作られたものでしたが、善悪の判断もできる電子頭脳をもつアトムは、2003年に誕生することになっていました。
小学校高学年になる頃のある日、よく行っていた本屋さんに、「2001年の世界」という本が置いてありました。表紙には、超高層ビルと、透明チューブの中を進む、車輪のない電車のような乗り物、宙を浮いて進む自動車がカラーで描かれていました。およそ30年後の世界です。結構立派な装丁だったので、店員さんの目を気にしながら、本をケースからだして読んでみました。2001年の乗り物、宇宙ステーション、都市の姿、海の開発の挿絵に目を引かれ、その本が欲しくなりましたが、お小遣い2ヶ月分の価格でしたので、その日には買えませんでした。その後も数日ごとにその本屋さんに行っては、売れてしまっていないかを確認していましたが、ついに、貯めたお金でその本を手に入れることができました。
二十一世紀の生活、宇宙開発、地球開発、原子力、エレクトロニクス、医療(病気のない世界、と紹介)、超スピードの時代(乗り物)、と章が進み、二十一世紀の日本が紹介される内容です。最も記憶に残ったのは、核分裂反応と違って安全・クリーンなエネルギーであるとされる核融合反応による発電計画と、ベーリング海峡(シベリアとアラスカの間)にダムを造って、北太平洋を温暖化させ、北国の農業環境を改善するアイデアです。当時はまだ、科学の進歩による人間にとっての便利な生活を求めていた時代で、それは、自然環境に対する配慮を欠く時代でもありました。
数年前に、古書店で、この「2001年の世界」を入手し、また読んでみることができました。最終章の付録に、2001年までの科学の発展の年表がありました。1980年頃に、タンパク質の合成が盛んになり、癌の良い治療薬が発見、1985年に核融合の平和利用(30年以上の遅れ)1980年代に家庭用電子計算機(実現済み)、壁テレビ実用化(15年から20年の遅れ)となっており、この本に書かれている予定からは、現実は約20から30年遅れていることがわかります。
とすると、子供の頃、心をときめかせてくれた、様々な発展、開発、発見を、まだこれから10年20年の間に体験することができるではないですか。
「2001年」は10年前のことですが、「2001年の世界」は、私にとってはまだまだ未来のお楽しみであり続けてくれることでしょう。
        (参考図書:2001年の世界、謝世輝著、偕成社版、1969年)
投稿者副院長 小谷 裕美
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