「地頭(ジアタマ)への憧れ」 小笠原 卓
2021年03月15日

僕の半生は自分の要領の悪さとの格闘だった気がする。物事の理解力が特に悪いわけではないと思うが、運動神経はかなり悪く、全体的にみると少し鈍臭い奴だった。親戚に"カカシ"と称された時は凹んだ。父は優秀で、運動神経もよく、子ども心に自分で勝手に比較して凹んだ。

小学校のクラスではよく発言する方だったので成績も決して悪くはなかったが、"地頭がいい"クラスメイトが2-3人いて、自分が思いつかないような回答など中々鋭い発言をしていくのを横目にみて歯噛みした。しまいには、質問の答えがまだ思いついてないのに(負けたくないので)勢いよく挙手して、結局答えられないという(かかなくてもよい)恥をかいたこともある。

 中学校に入ってもやっぱり周りに"地頭がいい"人が必ずいた。いち早くテストの答えを解く人や話していると頭の回転が早い人が必ずと言っていいほどいるのである。中学校はあまり学校の授業を聞いてなかったから、高校受験のための勉強は全て塾頼りであった。塾にも行かず学校の授業を聞くだけでよい成績を取れる人たち(つまり"地頭のいい")がいると知って、すごく羨ましかった。

 高校2年生になって初めて医学部進学を志した。近い親戚に医者は一人もおらず、医学部受験の難しさを誰もアドバイスしてくれなかった。文系の科目が得意だったので(というか数学が苦手だったので)、学校の先生は文系に進んだらどうかと勧めてきた(余計なお世話だ)。高校のテストでは3年間通じて、どうしても勝てない人が10人はいた。高校では自分もたくさん勉強したのだから、この10人は僕より"地頭がいい"のだろう。

 2浪の末医学部に合格した。合格に時間がかかったのは、勉強のスタートの遅さというよりは要領の悪さだろう。合格した時に涙した、「これで学力に関して(頭の良さに関して)他人と比較しなくて済む」と。それは甘かった。医学部では現役で合格した"地頭のいい"人達が沢山いたのだ。えー...ちょっと話が違うし...。

 しかし齢40近くになってみると"地頭"の差って何かそこまでこだわる必要があるのかとも思い始めた。世間で言われる"地頭の良さ"って、いわゆる記憶力や問題処理解決能力の速さ・正確性を主に指しているのではないかと思う。けど、人間の頭のよさって果たしてそれだけですかね?

例えば、たまにテレビでIQ 180の天才("地頭がすごくいい")が出て(ああなりたいと心底羨ましく思うんだけど)、じゃあそういう人が、仮に与えられた高難易度の試験を満点で回答するとしても、地球温暖化や少子高齢化などの答えの無い問題を満点で回答できるのだろうか?世界の貧困問題を今すぐ解決できるのか?おそらくできないでしょう。誰だってできません。

 「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」という言葉だってある。冷静に俯瞰するとかなり"酸っぱい葡萄"感が満載の文面になったが、言いたいのは、何か物事を為そうと考えた時、自分の"地頭"の無さを嘆き他人との頭の出来を比較するのではなく、地頭の差を乗り越える、物事をやり抜く強い意志や気概があるかどうかが大事ではないか、ということである。

 ちょうど受験シーズンに依頼のあったエッセイだったので、徒然にこんなことを思った。自分もひと時、それなりに苛烈な受験時代を過ごしていたのだが、今となっては何となく懐かしい。現在頑張っている受験生諸君の多少の参考になれば幸いである。

投稿者小児科医長 小笠原 卓