「ベラルーシという国をご存じでしょうか?」片山 昭公
2013年07月16日
私はこれまで、2009年と2012年の2回に渡ってベラルーシ共和国を訪問しております。目的はNPOチェルノブイリ医療支援ネットワークによるベラルーシ共和国ブレスト地区における甲状腺癌検診団に帯同し、現地にて内視鏡補助下甲状腺手術参加するためでありました。通称ベラルーシ、正確にはベラルーシ共和国は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接しています。首都はミンスク。「欧州最後の独裁者」の異名をとるルカシェンコが1994年より大統領を務めていることより「欧州の北朝鮮」という有り難くないニックネームもあります。もちろんチェルノブイリ原発事故の被害を最も受けた国家として有名ですが、2011年の経済危機以降もともと悪かった経済状況はさらに悪化し、1ドル=4930ベラルーシルーブルというインフレ状態で、ちょっとした買い物をするにも多量な紙幣を使い、なれない日本人には気が引けます。また、陸上の投てき種目(砲丸投げ、ハンマー投げ、円盤投げ、やり投げ)が強く、オリンピックで毎回活躍しておりますが、よくドーピング検査に引っかかり失格になっている事でも有名です。最近ではロンドン五輪女子砲丸投げ金メダリストや、室伏選手が金メダルを獲得したアテネ五輪の銀メダリストなどはメダル剥奪までされております。
被爆国であったり、貧乏な独裁国であったり、オリンピックでインチキしたり悪いことばかりですが、唯一ベラルーシが誇れるところは…..実は知る人ぞ知る”美女大国”なのであります。ターニャ・ディアヒレヴァやオルガ・シェレールなどの世界的スーパーモデルを輩出しております。実際、普通にミンスク市内を歩いていてもなんと美人の多いこと!「街中がスーパーモデル」になっております。しかし、うまい話は無いもので、そのスーパーモデルたちも30代を超えた頃には隣国ロシアと同じく雪だるまの様に肥えてゆくのであります。
投稿者耳鼻咽喉科部長 片山 昭公
「おじいちゃんの話」 執行 寛
2013年07月08日
明治生まれの母方のおじいちゃん。若い時に電線工事のため電柱に登っていた時に転落したと聞きました。それからは片足が不自由になったようです。僕が物心ついた時には遊びにいくと、いつも自室で片足を伸ばして座っていて、ヤスリなどでノコギリなどを研磨する仕事?をしていました。職人気質で頑固で寡黙であまり笑ったところもみたことがありません。おばあちゃんや私の両親も含めて親戚は社交的な人が多かったので奇異な方でした。何か恐い印象だったのか子供の私にはあまり話をした記憶がありません。ある年の正月、小学生の私が帰省先のおじいちゃんの家で扁桃炎による高熱を出した時、他の家族は温泉などに行ってしまいましたが、おじいちゃんは残ってくれました。氷枕をした私のそばでいつまでもノコギリを研いでいました。
それから月日が流れ、大好きだったおばあちゃんが先に急逝すると、おじいちゃんも後を追うように体が弱くなり、療養型の病院に入院しました。お見舞いに行くと寝たきりで痴呆もでてきているのか、口にあんこをいれたまましゃべったりする光景もありました。ある日の私が中1の夏のことでした。母に連れられて病院に行くとやはりかなり衰弱したおじいちゃんの姿がありました。すると突然、おじいちゃんが「ひろし!医者になったのか?よかったな。」と一言。私も母もびっくりです。「ひろしはまだ、中学生ですよ。おじいちゃん何言っているの?」と母。その時は痴呆も進んでいたのであまり気にも留めず帰りました。それから数日後、容態が悪くなりおじいちゃんは息を引き取りました。
現在、私は医師として働いています。その当時は坊主頭の田舎の出来の悪い中学生でした。勿論、将来像も何も考えていない、野原で草野球ばっかりの少年です。「おじいちゃん。あの時、何が見えたのですか?」「本当に未来がみえたのですか?」「おじいちゃん。あの時、僕はどんな医者に写ったのですか?」今になっていろいろ聞きたいことはありますが、もう永遠にその答えを知ることはできません。
 いま、おじいちゃんがみた医師像に近づいているかどうかわかりませんが、ただ有難うございます。感謝の気持ち、初心を忘れずいつまでも親身な医師でありたいと思っています。
投稿者耳鼻咽喉科部長 執行 寛
「覚えていますか?東日本大震災」 佐藤 康永
2013年07月01日
早いもので,未曾有の大災害といわれた東日本大震災から2年3ヶ月が経ちました.

今年2月,その被災地宮城県女川(おながわ)町を訪ねてきました.・・・女川町は,宮城県の
北東部にある震災前の人口が約1万人の町です.リアス式海岸で有名な三陸海岸の最南端
に位置し,海岸線の美しい町でした.私は当院に入職する前の3年間をこの町で過ごし
ています.2011年3月11日の震災では,震源地にも近く20メートル近い津波が襲来し町は壊滅的な被害を受けました.

私は震災から半年経った頃にも,女川を訪ねていますが,当時に比べたら震災により発生した瓦礫は,すっかり片付き被災した町の中心部にあった役場や駅等の施設の解体工事が済み,広大な更地が広がっており何処に何があったのかも分からない状態となっていました.一方では,震災により1メートル以上地盤沈下してしまった港の再建工事が始まり,町が復興に向けて,ようやく動き始めた感じがしました.ただ津波で被災した元の場所には家が建てられないため長期間掛けて高台に宅地造成が始まるという事です.現在人口は7千人まで減少し,過疎化も更に進んでしまいましたし,スーパーやコンビニ,銀行等もなくなり,毎月のように強い余震に見舞われ…と,まだまだ不自由な生活を強いられているのが現状です.

今年3月の震災関連番組の中で,60%の人が震災の記憶が風化してきているとのアンケート結果が紹介されていました.被災地では,震災の記憶を後世に伝えるために津波の到達点を表示したり,賛否両論あるところですが被災した建物を震災遺構として保存するという動きがあります.時間が経つにつれ風化が進んでいく震災の記憶・・・東日本大震災のような自然災害の発生を防ぐ事は出来なくても,災害時に発生する被害を極力抑える事は出来るはずです.この震災の記憶を教訓とするためにも,忘れないでいたいものです.


震災前の女川町



仙台空港に設置された津波到達位置表示
投稿者消化器内科医長 佐藤 康永
「四国の旅」 長尾 知哉
2013年06月24日
私はうどん県、いや香川県高松市で育ち、徳島大学を卒業しました。そういう縁で、毎年四国で行われる徳洲会の研修医募集説明会に参加させてもらっています。ちょうど、台風と梅雨の松山、高松と回って帰ってきたところです。
 私が医学生だったころは、就職先の決定(大学医局や市中病院)は6年生の秋以降に決めるのでよく、なんとなく6年生の夏休みに見学や実習に行っていました。しかし、全員が臨床研修病院での初期研修がシステムとして義務づけられている今では、6年生の夏には志望病院を決めなければなりません。早い人は4年生の夏から見学に出ています。国家試験は3日間になるわ、就職活動は前倒しになるわ、最近の医学生には同情してしまいます。
 そういう状況なので、彼らと話してみると、病院選択やキャリア形成への意欲がひしひしと伝わってくる半面、大学に残ろうか、地元に帰ろうか、初期研修後はどうなるのだろうか、などといった漠然とした不安もうかがい知れます。四国は研修病院も情報も少ないので余計に気になるようです。彼らの姿は十数年前の私の姿そのものでありました。
 ただ、自分の道は自分で切り開くしかないのは、国が決めた初期研修システムの中でも同じです。システムに与えられるだけでなく、うまく利用してほしいと思います。そのためには自らで見て、話して、聞いて、感じてほしいと思います。
 徳洲会は医学生が医師となり、初期研修を終わるころには骨太の医師になれるよう、さまざまな教育体制やサポートを用意しています。今回出会った医学生が見学に来て、いずれともに働いてくれることを楽しみにしながらうどんをすすった高松の夜でした。
投稿者外科医長 長尾 知哉
「ダイエットの話」 辻 英樹
2013年06月17日
 お恥ずかしい話であるが、私は太りやすい体質だ。現在178?で83?。何より食べることが好きだし、好き嫌いもない。朝いくら眠くても腹一杯食べられるし、風邪をひいても食欲が落ちることも無い。自分はそれ程重いとは思っていないのだが、手術室で「この患者さん体大きいね」と言った後、ホワイトボードの「78?」という文字を見て思わず赤面することがある。でも私は焦ることは全くない。なぜならダイエットの「成功体験」があるからだ。
 
 今から3年ほど前、約半年弱で13?のダイエットに成功をしたことがある。その体重を1年以上維持したが、その後徐々に増えて(5?程)現在の体重になった。最重量時には91-92?くらいになって、腹が邪魔して靴下を履くのが困難になった程だ。最近の体重増の原因は新病院に移転したこと。旧病院時代にも増して医局には(本来は)時間外に働く医師や当直医のための食べ物が沢山ある。しかもカップラーメンたっだりアイスクリームだったり炭水化物のものばかり。そんな環境だからちょっと腹が減ってはすぐにつまんでしまう。これでは余程精神的に強くないとまた太ってしまう一方だ。
 
 ではその3年前の方法とは? それは単純に「炭水化物を食べないこと」と「歩くこと」。炭水化物、すなわちご飯にパン、ラーメンやパスタ、そば等の麺類。砂糖の入ったジュース、コーヒーはもちろん厳禁だ。それだけでかなりのカロリーを減らすことができる。そしてその日に摂取したものを夜思い出して必ず書き留めることが大事。目安は朝昼で1000キロカロリー以内にとどめておき、夜500で(これは妻にも協力してもらった)一日1500キロカロリーに押さえられればまず痩せる。でも宴会は制限しないこと。ストレスがたまるのは良くないし、「歩くこと」も同じで毎日続けられることが肝心だ。「ランニング」は私の場合はダメで、仕事以外で体力的にしんどい事は続かない。歩く時間も毎日1時間位でないとこれまた続かない。歩く事はいろいろと考える時間を与えてくれる。やり始めると初めの2週間くらいは体に力が入らなくて眠くなる。ちょっと辛い日々だがそのうち胃が小さくなるのかすぐに満腹になるし、だんだん体重計に乗るのが面白くなる。こうなればもうシメタものだ。

 この炭水化物ダイエット、初めは大学3年生の時。身長の伸びが止まってちょっと横に来たのかな、と思いご飯の量を半分にしたところ、2ヵ月で4?落ちてしまった。もちろん野球をやっていて沢山運動をしていたからその効果もあったのだろうが、自分にはこれが合っていると思い込んだのがいけなかったのかもしれない。その後医師になり運動量と反比例するかのように体重が微増し始め、1年に1?ずつ増えていき気づいたら卒後15年目には卒業時より15?増となってしまった。最初の5-6年は「江川だって巨人でやっていた頃、自分の理想体重は1年に1?ずつ増えていく、って言ってたから、オレも大丈夫だ」と訳の分からぬ言い訳をしていた。だが流石に15?増えると血液検査でも異常値が出てくる。コレステロール、中性脂肪、γ-GTP。まさにメタボまっしぐらの状態だったが、体重減と共にこれらの値も正常化した。これもダイエットに拍車をかけるモチベーションになるのだ。

 実はこの2週間ほど前からプチダイエットをまたやり始めている。でも子供の少年野球に付き合わなくてはならないから、やり過ぎも良くないと思い、とりあえず夜8時以降に食べ物は口にしないことにした。でも今回はあまり落ちてこないようだ。原因は?? やはり昼間の医局でのつまみ食いらしい。自分はいつでも痩せられるぞ、という変な自信(!?)からか、今回はどうも真剣味に欠けるようである。
投稿者外傷センター部長 辻 英樹