「五十にして天命を知る」 辻 英樹
2019年09月17日

 今年もリレーエッセイ執筆の季節となった。大体1年に一回同じ時期に順番が回ってくる。今回は50歳を超えて初めてのエッセイとなる。感じていることを書いてみた。

 区切りの年齢となった時、私はいつもあの孔子の言葉を思い出し、その都度自分の境地と比べてきたような気がする。「四十にして惑わず 五十にして天命を知る」 大台に乗った私は、果たして天命を知ることは出来たのだろうか?

 答えはノーである。そもそもこの世の中、「四十にして惑わず」という人もそういないだろう。惑わされてばかりの人の方が圧倒的に多いに違いない。私もそうであった。私がこの忙しい救急病院に来たのが37歳の時。めまぐるしく変化する日常の中、毎日毎日惑わされてばかりだった。であるからまして「五十にして天命を知る」人など、今の日本社会に本当に存在するのか?と思ってしまう。

 今や人生100年時代。超高齢化社会に突入し定年年齢はどんどん引き上げられ、50歳となっても「若手」などと言われてしまう。そんな世の中であるから「五十にして天命を知る」ことなど許されない?背景もあると思うのだ。

 では解釈を変えてはどうだろう。私は今まで「五十にして天命を知る」とは「50歳になったら自分の使命を悟る」というような意味だと思っていた。だからこそ「そんなのまだ無理だ」と思っていた。しかしネットによるとどうもそんな意味ではないらしい。現代と違って孔子の時代は50歳といえばもう老境の時代。つまり「天命を知る」とは今までの生き方ですでに己の限界を知り、諦めよ、ということらしい。この意味なら私でも「天命を知る」ことが出来そうである。髪の毛が薄くなっても、酒が弱くなっても、遠近両用メガネとなっても何も焦ることはなく「諦める」。何事も焦らないで「諦める」ことも肝心なのだ。これが六十:耳順、七十:従心の孔子の境地に入る近道に違いない。

投稿者:副院長・外傷センター部長 辻 英樹
カレンダー
カテゴリー