最先端24時間救急医療、外傷センター、日帰り手術の札幌徳洲会病院
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投稿日時:2009年4月13日 16:09 月曜日

1989年(平成元年)に北海道大学医学部を卒業し、北大麻酔科に入局しました。Neuroscience に興味があったので、麻酔科以外では、脳神経外科や精神科も卒後の志望先に考えましたが、On とOff が比較的はっきりしている麻酔科を選択しました。
1年目は北大病院で研修をしました。当時は手術件数が今よりも少なく、また、入局者も多く、比較的平穏な日々でした。週休2日で、当直や待機はなく、週末は飲みに行ったり、遊びに行ったり楽しく研修させていただきました。
2年目は市立札幌病院で研修しました。麻酔科医5人の中で一番下だったのでいろいろやらせてもらい、また症例が豊富でとてもためになりました。麻酔科待機はしましたが、レジデントは当直があたりませんでした。当直は、ときどき老人病院のアルバイトをしたくらいでした。当時の病院はSTVの隣にあり、街の中で、外食や買い物には不自由しませんでした。他科のレジデントもたくさんいて、よく学びよく遊び、楽しい研修医時代でした。
当院に赴任したとき、現在の臨床研修制度の先駆け的なスパーローテートの研修システムおよびよく働くレジデントに感心しました。

投稿者:麻酔科部長 奥山 淳

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投稿日時:2009年4月7日 16:07 火曜日

自分がここ札幌徳洲会病院を最初に訪れたのは、大学5年生の実習でした。当時、現在の森利光院長が研修医として急性虫垂炎の手術を執刀されていたのを鮮明に記憶しています。学生時代医療研究会なるサークルに所属し、いろいろな医療機関の情報を学生なりに把握しており、今のような卒後臨床研修システムはこと大学においてはなきに等しいと感じていました。当時、同期の約半数は卒業大学に残り、大学の医局に所属して若いうちは地方の病院を1~2年ごとに回って歩くというのが進路の大方でした。

 昭和50年代後半はいわゆる救急医療の「たらい回し」が社会問題としてクローズアップされていた時代で、365日24時間オープンを理念に掲げた徳洲会の活動は良くも悪くもマスコミをしばしば賑わせていました。その中でも札幌病院はできたばかりのピカピカの病院で、そこに勤務する医師もバリバリの若手(これは錯覚だったのかもしれません)ばかりで、大学6年目に二度目の実習をこの病院で行ったときにすでに自分の進路は決定していました。当時にしては珍しいローテート型の研修が可能である札幌徳洲会に行くしかないと決めつけていたのです。

 とは言っても、今にしてみれば、当時の診療科は内科外科しかなく、卒後最初の1年目に内科半年、外科半年。2年目には内科か外科か好きな方を選択するというアバウトなものでした。自分当初の予定通り最終的に外科に籍を置いたわけですが、当時は泌尿器科・整形外科の非常勤の医師が定期的に来ており、彼らの行う手術の助手に入るのも日常業務の一つとなっていました。やがて「どうだ、(執刀を)やってみないか?」といってくれる先生もおり、一般外科の手術はもちろん、これら他科の領域まで踏み込んだ研修ができたと思っています。その後小児科、産婦人科、整形外科が常勤医となるまでは少ない人数でもっぱら内科医。外科医のみからなる医局でしたが、今の厚生労働省が定めるスーパーローテート研修に近い格好の研修を可能にしていたのは、当時の北海道において、札幌徳洲会病院以外にはごく少数の施設に限られていたと思います。。

 時は流れ、20年以上が経ち、自分も老眼鏡をかけるようになりました。連綿として受け継がれた徳洲会の研修医たちは数多く巣立っていき、札幌徳洲会病院でも自分の後輩が執刀医として外科の主軸を担っています。今は外科医としての仕事はほとんどせず、救急外来専属として働いています。外科医としては一抹の寂しさは禁じざるを得ませんが、救急医は病院の入り口の顔です。困った患者様の最後の砦として、近年再び問題化している「救急患者のたらい回し」をしない地域医療の一翼を担う所存でこれからも精進したいと思います。そして来るべき病院移転新築をにらみ、救急部専任スタッフを増やし、独立した北米式ERシステムを構築できればと夢見ています。

投稿者:救急診療部長 清水 徹郎