最先端24時間救急医療、外傷センター、日帰り手術の札幌徳洲会病院
札幌徳洲会病院 北海道 札幌 -最先端救急医療・新たな気持ちでここから心から

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NO TITLE

投稿日時:2009年2月24日 15:51 火曜日

 私は1999年に北海道大学を卒業し、札幌徳洲会病院に入職いたしました。当時は大学神話に変化が出始めたころで、大学以外で研修をする人もだんだん増えている時期でしたが、臨床研修が義務化になっておらず、大学の医局に入局するのがまだまだ主流でした。しかしその流れには乗らず、あえて札幌徳洲会病院を選びました。
私が札幌徳洲会病院を選んだ大きな理由は2つです。
1つめは、救急をたくさん受けていて、それを研修医が担当するというシステムがよかったからということです。徳洲会病院の理念に患者を断らないという項目があります。どんな患者でも、どんなに病院が忙しくても依頼があれば受け入れるという考えかたにひかれました。私が医師を目指した根底には、目の前で苦しんでいる人を助けたいという気持ちがありましたので、その目的に当てはまる病院だと考えました。
2つめは、各科のローテーション研修と離島研修です。徳洲会病院は僕が入職するずっと前からこの2つを基本とする研修システムが確立されていました。今の臨床研修システムの先駆けになると思います。私は卒業するまで自分の選択する科を決められなかったため、適した科を選ぶのに実際に回ってみるという方法が魅力的に感じました。また、離島研修は北海道で生まれ育った自分にとって南の島で働くというのは未知の領域でありながらもきっと楽しい研修に違いないと思っていたので、まさに願ったりかなったりという感じでした。
このように書くと徳洲会病院にしか興味がないような感じに受け取られるかもしれませんが、徳洲会病院に入ることに対して不安がなかったわけではありません。激務に耐えられるのかどうか、研修が終わって自分が成長できているのかどうか、政治がらみの問題はないのかなどなど・・・。そんな不安を抱えながら札幌徳洲会病院での研修生活が始まりました。
実際研修を始めてみると、想像以上の忙しさで研修が終わるまでもつかどうか少し不安な時もありましたが、先輩に助けられながらも何とかこなすことができました。今振り返ると、この2年間の研修はとても貴重で自分の今の土台をなすものになっていると思います。また、政治に関しての問題は少なくとも自分の研修に悪影響を及ぼすものではありませんでしたし、現在もそれを問題に思うことはありません。
今研修先を考えている方に伝えたいことは、身を粉にして働くことがすべてではないけれどもその研修は必ず糧になるということ、実際に研修をしたドクターに話を聞いてみるのが何よりも参考になるということです。ぜひ、札幌徳洲会病院に足を運んで生きた話を聞いてみてください。

投稿者:麻酔科医長 桑原 稔

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投稿日時:2009年2月17日 15:49 火曜日

 私は卒後すぐに札幌徳洲会病院に入職し、2年間にわたり各診療科を数ヶ月ずつ修業いたしました。もう10数年前のことです。現在の卒後臨床研修は厚生労働省により2年間必修化され、私の時と同様に各診療科を数ヶ月ずつ研修するものですが、当時はまだまだ稀で一部の研修病院が行っているだけで、それを希望する医学部卒業生もごくわずかでした。私の同級生の5%位だけだった様に記憶しています。多くの他の同級生は大学の医局に入局し、はじめから専門科に属していました。

 当院での研修を希望した理由は3つあります。
1つめは先に述べましたように各診療科で基礎的なことを修業・勉強できる環境であったことです。研修から数ヶ月たち、1年たち大学に残った同級生たちと比べると、彼らは自分の領域は得意だけれども他の科のことは自分の方が得意だと実感しました。

2つめは救急診療を積極的に行っている病院だったことです。医師になったならば可能な限りの救急初期対応はできるようになりたいと強く思っていました。このような思いは現在の医学生の中にも少なからずあるだろうと思います。当院は札幌市内でも有数の救急車受け入れ病院です。
最近はコンビニ受診がマスコミで取り上げられていますがこれは今に始まったことではないように思います。私が研修医だったころも様々な理由で多くの時間外受診の患者さんが来院されていました。たとえば早朝トイレに目覚め、たまたま髪の毛をさわったら頭に小さなできものがあり、痛くもかゆくもないのですが気になり朝5時に受診した30代の男性。さすがにこのような場合は朝9時からの正規の外来時間を利用してほしいと思います。我々のマンパワーにも限りがあります。できるだけ救急患者を多く受け入れるためです。

3つめは魅力的な先輩医師と出会ったことです。
その先生はあらゆる治療手技をさらりとやってのけ、かつクールで「かっこいい」と思ったものです。ここで研修すればきっと同じようになれるんだという思いで修練に励みました。人との出会いは大切です。もしも読んでいただいている方の中に医学生がいるならば、見学・実習先でそのような医師に出会えるように積極的に医療現場に参加してください。

研修同期の1人は函館の病院でバリバリの整形外科医、もう1人はアメリカで法医学の修行中。元気かな?

投稿者:外科医長 城田 誠

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投稿日時:2009年2月10日 15:46 火曜日

昭和62年の春が私の本格的な卒後研修の開始でした。
私の国家試験の合格を首を長くして待っていた当院の医局の各スタッフの先生方には、医局会議の挨拶の際に当時の内科指導医であられた矢崎 一雄先生から「頑丈なので、なたね油のようにしぼれるだけしぼって鍛えてやって下さい。」とのアナウンスがあり、不安と半ば期待の入り混じったやや複雑な気持ちで神妙に聞き入っておりました。
そして、搾れば搾るほどに滲み出るガマの油ならぬ脂汗に近い冷や汗を含めてかなりの油を搾られたと思います。
最初は、一人の患者さんの問診と身体診察に1時間近くもかかり、入院時のカルテを書き終えると大きな達成感はありましたが、帰宅する時間も深夜に及ぶこともしばしばでした。静まり返った夜のサイクリングロードを夜空の星を見上げながら、身体は疲れていてもなんとなく充実した気分で帰宅の途につく足取りは思わずスキップをするかのような軽やかなものであった時もありました。
しかし、そんな生易しいイントロの期間もあっという間に終わり、いきなり大海原に乗り出す船の初年水兵のような気分になったのは、ライラックの花の咲き出す前でした。
「1年目は、延髄から下だけでいい。とにかく、考えるまえに身体を動かせ!」との
言葉に洗脳や除脳されたわけでもないのに、本当に運動神経の反射の訓練をしているかのうような、まさに「からだで覚える救急医療」であったり「からだで覚える臨床医学」の毎日であったように思います。それは、まさに「訓練」という言葉が持つ内容に近いものでした。当時もevidence basedなところは多々あったはずですが、野性的な勘であったり、場数を多く踏む中で捉えた言語化が難しい微妙なエッセンスのようなものも自分だけの貴重なお宝として毎日自然と吸収、蓄積して行ったような印象が残っています。
しかしながら、活字から遠く離れた絶海の孤島で文明の知的遺産の恩恵に浴することも
出来ないようなある種の孤独感を稀に感じる時もあり、たまに本を開くのですがものの3分も待たずに両眼のまぶたはゆっくりと下がって行くのでした。
最初の1年でcover to coverでまともに完読した本と言えば、恥ずかしながら1冊の薄っぺらな麻酔科入門の本と聖路加レジデントマニュアルだけでした。読んだうちにも入らないような状況に自分でも感心するくらい忠実に教えを守ったのだと思いました。
「最初の1年は延髄以下を優先せよ。」との教えを。
若く、血気盛んな多くの指導医の先生方に随分と可愛がられ、油も相当しぼられました。
限られた時間の中で、睡眠や食事を取り、教えられた内容から大きく隔たりが起こらない程度になんとか診療を遂行し、当直明けには朦朧とした頭でそれでも講義を睡眠学習し、立ちながら眠ってのフィルムカンファレンスでは思わずシャーカステンに向かってつんのめってしまって皆のひんしゅくを買い、たまに開いた本を手に居眠りをしていると指導医からは灰皿(当時は医局ではタバコを吸う先生が多くおられ、そこかしこに「灰皿」なる今ではとても懐かしい代物が置いてありました)で後頭部を殴られつつ
「かっこだけじゃダメなんだよ!」と怒鳴られ、延髄から下だけではもうダメなんだと
気付き始めた頃には、可愛い後輩がいる次の春を迎えておりました。
あっと言う間の1年間でしたが、体験を通じて得られる経験知の集積はそれなりのものがあったように思います。
そんな1年をなんとか無事終えて、本当の意味で「勉強」を始めたのは研修医2年目からでした。
教える喜びは、そのまま真に学ぶ喜びに繋がることを知ってからでした。

投稿者:総合内科・腎臓科部長・研修管理委員長 小野寺 康博