最先端24時間救急医療、外傷センター、日帰り手術の札幌徳洲会病院
札幌徳洲会病院 北海道 札幌 -最先端救急医療・新たな気持ちでここから心から

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NO TITLE

投稿日時:2009年4月7日 16:07 火曜日

自分がここ札幌徳洲会病院を最初に訪れたのは、大学5年生の実習でした。当時、現在の森利光院長が研修医として急性虫垂炎の手術を執刀されていたのを鮮明に記憶しています。学生時代医療研究会なるサークルに所属し、いろいろな医療機関の情報を学生なりに把握しており、今のような卒後臨床研修システムはこと大学においてはなきに等しいと感じていました。当時、同期の約半数は卒業大学に残り、大学の医局に所属して若いうちは地方の病院を1~2年ごとに回って歩くというのが進路の大方でした。

 昭和50年代後半はいわゆる救急医療の「たらい回し」が社会問題としてクローズアップされていた時代で、365日24時間オープンを理念に掲げた徳洲会の活動は良くも悪くもマスコミをしばしば賑わせていました。その中でも札幌病院はできたばかりのピカピカの病院で、そこに勤務する医師もバリバリの若手(これは錯覚だったのかもしれません)ばかりで、大学6年目に二度目の実習をこの病院で行ったときにすでに自分の進路は決定していました。当時にしては珍しいローテート型の研修が可能である札幌徳洲会に行くしかないと決めつけていたのです。

 とは言っても、今にしてみれば、当時の診療科は内科外科しかなく、卒後最初の1年目に内科半年、外科半年。2年目には内科か外科か好きな方を選択するというアバウトなものでした。自分当初の予定通り最終的に外科に籍を置いたわけですが、当時は泌尿器科・整形外科の非常勤の医師が定期的に来ており、彼らの行う手術の助手に入るのも日常業務の一つとなっていました。やがて「どうだ、(執刀を)やってみないか?」といってくれる先生もおり、一般外科の手術はもちろん、これら他科の領域まで踏み込んだ研修ができたと思っています。その後小児科、産婦人科、整形外科が常勤医となるまでは少ない人数でもっぱら内科医。外科医のみからなる医局でしたが、今の厚生労働省が定めるスーパーローテート研修に近い格好の研修を可能にしていたのは、当時の北海道において、札幌徳洲会病院以外にはごく少数の施設に限られていたと思います。。

 時は流れ、20年以上が経ち、自分も老眼鏡をかけるようになりました。連綿として受け継がれた徳洲会の研修医たちは数多く巣立っていき、札幌徳洲会病院でも自分の後輩が執刀医として外科の主軸を担っています。今は外科医としての仕事はほとんどせず、救急外来専属として働いています。外科医としては一抹の寂しさは禁じざるを得ませんが、救急医は病院の入り口の顔です。困った患者様の最後の砦として、近年再び問題化している「救急患者のたらい回し」をしない地域医療の一翼を担う所存でこれからも精進したいと思います。そして来るべき病院移転新築をにらみ、救急部専任スタッフを増やし、独立した北米式ERシステムを構築できればと夢見ています。

投稿者:救急診療部長 清水 徹郎

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投稿日時:2009年3月31日 16:06 火曜日

私は、昭和59年、旭川医科大学を卒業しました。6期生です。卒業を前にして、実家のある東京へ帰るか、北海道に残るかを少し迷いましたが、部活動の先輩の勧めで、消化器外科医を志して、旭川医大第2外科に入局しました。
同期は私を含め8名いました。当時、第2外科の研修医は、はじめの1年間のうち6ヶ月を旭川医大で、6ヶ月を北海道大学の麻酔科で研修することになっており、私は前半を外科で、後半を麻酔科で研修しました。旭川医大付属病院での病棟業務は、まずは朝の点滴係から始まり、手術、術後管理、資料や伝票の整理、それに加えて学会発表の準備と、毎日があっという間に過ぎていました。その合間を縫って、同期の他の3人とは飲みに、行楽に、多忙な毎日でした(当時、旭川の居酒屋「赤ちょうちん」は朝5時まで営業)。北大麻酔科時代は、病院とアパートの往復以外ほとんど外出をしない、冬の半年を過ごしました。6ヶ月で全身麻酔220件ほどを経験させていただきました。
2年目は、旭川厚生病院外科で研修しました。当初は研修医が私一人で、基本的にすべての手術に第2または第3助手として入り、標本整理と術後管理をすることになっていました。だいたい仕事が終わるのが夜10時か11時で、準夜帯の勤務の看護師さんが仕事を終えるのを午前2時すぎまで待って、食事に行き、4時頃帰る、という日々でした。
初期研修は通常卒後2年間だったのですが、私は3年目に、国立札幌病院外科(現北海道がんセンター病院、当時はまだ乳腺内分泌外科は独立していませんでした)で、レジデントとして研修することになりました。当時在職していたレジデントは3名で、年間約1000件の消化器および乳腺甲状腺手術の助手、術後管理を行い、1年間で全国学会1回、厚生省班研究の宿題報告1回、地方会2回の学会発表をさせていただきました。1年間で2日以上続けて休んだのは、10月に東京に旅行した3日間だけで、旅行中、病院への連絡に5000円のテレフォンカード(懐かしい)を使いきりました。まだ、メッセージを入れることができないポケベルの時代でした。
その後旭川医大に戻り4年目。5年目は、札幌徳洲会病院で、外傷、救急疾患を含め、一般外科の経験をさせていただきました。現救急部長の清水先生が当時3年目レジデントだった時代です。研修医時代の3年間、外科研修医、レジデントとして、所属する旭川医大第2外科の先輩だけでなく、北大第1外科、麻酔科の先生方、他科の先生方、コメディカルの方々にも並々ならぬご指導をいただきました。当時は、手術や術後管理については現在のようなレジデント向けの指導書はなく、ビデオもなく、レクチャーもありませんでした。見て覚える、盗んで覚えるが当たり前で、まさに徒弟制度の厳しい指導だったと記憶しています。
相当につらい思いをしなければならない時代を過ごしましたので、自分が教える立場になったら、できるだけ研修医には優しくありたい、と思っています。ただし、外科志望の研修医、レジデントには「愛のある徒弟制度」で接することにしています。

投稿者:外科部長 小谷 裕美

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投稿日時:2009年3月24日 15:58 火曜日

私も卒業後はそのまま出身大学の呼吸器科(もとを糾せば結核科)に所属したため、所謂卒後臨床研修なるものは受けておりません。
しかしながら、当時の科長(教授)はナショナル・センター出身と言えども、大学医局に所属したことがない方であり、初期研修の大切さはある程度認識されていたようです。おかげさまで、縦割りの大学組織内で限界はありましたが、一年目の時は、心臓血管外科で朝早くから夜遅くまで汗を流したり(頭はあまり使わない)、あるいは健診センターで上部消化管の二重造影(内視鏡ではない)にのめり込んだり、あるいは病院病理部で手術材料の切り出し・鏡検・報告書作成に徹夜したりといろいろ経験させていただきました。そして、二年目の地方病院への長期出張の直前、短い期間ではありましたが、築地の国立がんセンターに見学に行くことができたことは大きなインパクトでした。即ち、それまではレントゲン写真やCTによる肺癌の診断に命をかけている教室(医局)に在籍していたのですが、東京に行ってみるとそんなことより肺癌治療、それも手術などではなく当時はそれほど期待の持てなかった抗癌剤による化学療法を極めて精力的に行っている方々に遭遇し、大きなカルチャー・ショックを受けた次第です。そしてその後、がんセンター関連の病院で約二年間勤務し、北海道に戻って来ました。当徳洲会グループも、今までは循環器救急などにひたすら血道を上げていましたが、国民の三人に一人が癌で亡くなる現状に鑑み、数年前よりオンコロジー(臨床腫瘍学)に(も)注力する事態となりました。今となってはその頃の「体験」が少なからず役に立っており、当時のボスに感謝している今日この頃です。

投稿者:呼吸器科部長 本田 亮一

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投稿日時:2009年3月10日 15:57 火曜日

私は、1977年、札幌医大を卒業し、研修は、札幌医大の第三内科を選びました。当初、内科の様々な科を研修するつもりでしたが、そのまま、第三内科に入局しました。したがって消化器、循環器の研修はできませんでした。当時、医局内の先生方も少なく、まともな研修は、受けられませんでした。三内は、他の科と違い牧歌的で、のんびりと過ごしました。呼吸器領域の専門的な手技は、1年ほどで習得しましたが、胃カメラその他腹部エコーらの手技は、独力で、地方で覚えました。したがって、胃カメラは、現在も続けておりますが、難しい症例は、専門の消化器の先生に依頼しています。
1987年に札幌徳洲会病院に入職しました。当時は、スタッフも7名ほどしかいず、さまざまな内科の患者さんを受け持たなければならず、当院で改めて、再研修したと思っています。
2004年4月から新臨牀研修制度が、始まり当院にも多数の研修医が、入職しましたが、相当きついようですが、症例数も多く、将来的には、決して後悔はしないと思います。ことわざに、鉄は熱いうちに鍛えよとあります。昨今は、忙しい研修病院は、敬遠されがちですが、当院の研修も選択肢の一つに入れてもよいのではないかと思います。

投稿者:診療部長 伊藤 喜代春

我が懐かしの新人医師時代

投稿日時:2009年3月3日 15:53 火曜日

ああーあー津軽海峡冬景色…石川さゆりのヒット曲が街中にながれていた1977年。季節こそ厳冬ではなく初夏を迎えた7月1日、私は国家試験合格後の3ヶ月間の短い大学小児科医局での研修生活を終え、青函連絡船上の人となっていた。
青森市にある県立中央病院小児科勤務となるが、生まれてはじめて親元を離れての道外での生活は、期待よりも不安のほうがはるかに大きかった。当時の県病小児科は総勢8名、大学のジッツ病院中最大であり、患者数も多く、症例も豊富で、多くの小児科医の憧れの存在であった。新人医師はまず外来担当医が入院させた患者の主治医となり、上級医の指導のもとで検査、治療に従事する事になった。感染症、白血病などの悪性疾患、奇形などを有する先天異常症や遺伝病など1日2-3例の入院患者が割り当てられ、独身寮に帰るのは深夜になる日が続いた。また同院は県の中核となる未熟児センターも併設していたので、県内の広い地域より24時間を通して救急搬送される新生児を輪番制で担当した。
独身寮には15名ほど居住していた。現代のようにポケットベルや携帯電話は普及しておらず、深夜に病院から寮に呼び出しの電話が鳴ると、管理人夫婦が受け取り、私たちの部屋のほうに歩いてくる音が聞こえてきた。私でなければよいのだがと、まるでお呼びが掛かる死刑執行前の囚人のような気分になった。運悪く私であれば、病院までの300mほどを駆けて行き、しばしばそのまま病院に寝泊りしたものであった。
青森県立中央病院医誌(青県病誌)が年4回発刊されるので、論文は年4編の作成がノルマ。その他の医学雑誌にも投稿すると年6編ほどになった。参考文献を集めるために、自家用車で弘前大学医学部図書館にもよく行った。症例報告、特定の疾患についての数年間のまとめなど、同院は症例数、疾患の多様性に富んでいたため、ネタを探すのには苦労しなかった。
ある日腎臓病が専門の部長が、私を生後2ヶ月の先天性ネフローゼ症候群の女児の主治医とした。虚弱児であり、多量の蛋白尿を認め、浮腫を伴っていたため、アルブミン製剤や利尿剤による治療を中心に行なった。しかし病状は改善せず、1年後に感染症で亡くなった。現在であれば腎移植などにて完治も期待できるのだが、当時は難病であった。本症例のプロテアーゼインヒビターを中心とした凝固線溶能や羊水診断などを中心とした論文も作成した。1週間後には今度はネフローゼ症候群を呈した急速進行性糸球体腎炎による急性腎不全の幼児を当てられた。血清尿素窒素100mg/dL以上、クレアチニンも10mg/dL以上で無尿。利尿剤などの効果なく、腹膜透析を行なう事にした。部長の指導の下、恐る恐る腹膜チユーブを挿入し、当時のものものしい腹膜透析装置を操作し、寝ずの番を務めた。しかしこの子も肺炎、肺水腫で亡くなった。
私は今までネフローゼ症候群で命を落とすとは夢にも思っていなかったが、この2例の悲惨な現実を直視して、腎臓病の奥の深さ、治療の難しさを深く認識した。腎臓病に興味を抱き、その後も多くの患者を担当させてもらった。私が現在小児科を離れて腎臓内科専門医として従事する最初の契機となった。
仕事はハードであったが、当時の県病小児科は20歳代の独身者が多く居たので、夜9時過ぎより飲みに行くことがあった。週末にはナースたちと供に津軽、下北半島、十和田湖、春のお花見の頃は弘前公園への夜のドライブ。そして何よりも8月のあの津軽っ子を熱狂させるねぶた祭り。ラッセラーの掛け声高らかにハネトとして街中を踊りまくった。祭りを経験すると誰もが青森が大好きになった。翌日は足が痛くなって階段も上れない程であったが、心療は真面目にやった。仕事にレジャーにメリハリを付けた中身の濃い生活を送った。あっという間の3年3ヶ月であった。1980年9月30日とうとう青森を去る日が来た。連絡船の桟橋でナースより大きなねぶた絵をいただいた。ごらんあれが竜飛岬北の端と…..船窓よりの風景を眺めながら、青森での充実した日々に感謝した次第である。

投稿者:透析・腎臓内科部長 横山 隆